その戦いとは同年6月16日に行われたものだ。Bodartの
Militär-historisches Kriegs-Lexikon ではランビュサールの戦い(p293)と記されている。オラニエ公率いる連合軍4万1000人がジュールダンのフランス軍7万3000人を相手に勝ったことになっているが、もちろんこの戦いについてもDupuisの本に掲載されている(p261-302)。というわけで、以下ではまたこの本を使い、16日の戦いがどんなものだったかを調べてみよう。今回も使用するのは
Ferrarisの地図 だ。
ジュールダンの下に再編されたフランス軍がサンブルを渡ったのは12日だった(Dupuis, p284)。ジュールダンによると、インスモン(エイスモン)、オーヴロワ及びタミーヌに展開していたアルデンヌ方面軍1万1500人は、前日のうちにオーヴロワ(Ferrarisの地図Fleuruにある)に接近し、12日にそこでサンブルを渡ると、右翼をテルニェー、左翼をランビュサールに置き、オーヴロワとタミーヌの橋を守り、前衛部隊をボーレ、ワンフェルゼー、ヴレーヌに配置したという。これらの部隊配置は
前にも述べた通り 、フルーリュスの戦い当日におけるマルソー部隊の配置とほとんど同じだ。
アトリ師団とルフェーブル師団はマルソーの西側、シャトレでサンブル河を渡り、前者はシャルルロワの攻囲を、後者はカンピネール正面からワニェー(ワンジュニー)までの戦線を担当した。シャンピオネ、モルロの両師団、及び騎兵予備はシャルルロワ上流のマルシエンヌ=オー=ポンでサンブルを渡った。シャンピオネはワニェーからアッピニーまで戦線を敷き、哨戒線をメレとサン=フィアクルに展開。ゴスリー正面に行ったモルロはポン=タ=ミニュルーを占拠し、騎兵は後方のランザールに控えた。
クレベール指揮下のデュエーム及びミュレ師団はアルヌ(オルヌ)修道院(地図Thuin)でサンブル河をわたってクールセル高地を占拠。司令部はマルシエンヌにとどまった。後にジュールダンはこの布陣に対し、戦線が伸びすぎていることと、退路が中央ではなく両翼の背後(シャトレとマルシエンヌ)にあることが問題だと指摘しているが、一方でナミュールにいるボーリューに対処しつつ、軍の退路となるマルシエンヌを確保することも大事だったと言い訳をしている(Dupuis, p285)。
だがこの日の時点でフランス軍はむしろ意気上がっていたそうだ。この日はまさに公安委員のサン=ジュストが到着した日でもあり、ジュールダン自身も公安委員会への報告で自分たちを退かせるために連合軍は多大な軍を必要とするはずだと指摘している。フランス軍は翌日にはシャルルロワに対する攻囲用の平行壕を北方で掘りはじめ、13日から14日にかけての夜間にはブリュッセル街道付近に連合軍が構築途中だった堡塁をフランス軍が攻撃している。
この攻撃に関するアトリ将軍の報告(Dupuis, p287)を見ると、作戦は成功して堡塁は破壊されたそうだ。当初は午後11時に始めるはずだったこの攻撃は午前2時開始まで遅れ、最終的には「日中に4時間も激しい砲撃に晒されながら」実行することになったが、それでも兵士たちは「サ=イラ」を歌いながら攻撃を実行したという。堡塁にとりついた工兵たちは、夜明けに照らされ、至近距離から砲撃されながらも、堡塁の胸壁を破壊するまでそこで踏ん張った。
フランス軍はこの堡塁を確保するまでには至らなかったそうだが、その破壊によって攻囲壕が掘りやすくなったのだろう。同日夜には最初の平行壕が、15日には夜の間に2つ目の平行壕が完成するなど、ハイピッチでシャルルロワの攻囲が進んでいった。
フランス軍の動きに対応し、サンブル付近に展開していたクォスダノヴィッチはシャルルロワの守備隊を増援したうえでフラーヌへと後退した。彼はメレ北東のシャサール農場からブリュヌオーを経てスレに至る哨戒線を配置し、シャペル=エルレモンにいるショッテンドルフの分遣隊と接していた。彼の左翼側ではボーリューがタンプルー方面でリーシュの分遣隊と合流し、ソンブルフとボテーの中間ポアン=デュ=ジュールに布陣していた。この方面の連合軍を指揮していたオラニエ公は、トゥルネーへ向かわせる予定だった4個大隊をとどめ、フランス軍への反撃を行うことを決めた。
彼が12日にコーブルクに宛てて書いた手紙では、その日の夜には全軍を率いてフラーヌへ進むとある(p290)。実は4個大隊だけでなく、総計で歩兵10個大隊、騎兵12個大隊をクレルフェ増援のために送ることを考えていたコーブルクは、フランス軍をサンブル対岸へ撃退できればそうした行動を取りやすくなると考えてオラニエ公の方針を了承した。
オラニエ公の主力はルヴロワ(モブージュ北東)の宿営地を12日から13日にかけての夜間に発ち、ニヴェール街道を経て14日にはマルベ(フラーヌとソンブルフ間)に到着した。この日と翌日の日中にフランス軍の位置を偵察したオラニエ公は、16日の攻撃について4つの縦隊で行うとの命令を出した。
第1縦隊はボーリューとヴァーネックが指揮する歩兵14個大隊、騎兵22個大隊で、最左翼はサンブル河に近いムスティエとジュムプに分遣隊を残しておく。歩兵7個大隊と騎兵10個大隊はバラートル(ボテー南方)に集結してランビュサール村とランビュサールの森、及びルピノワの森(いずれもランビュサール村の近くにある)へと向かう。残りはポアン=デュ=ジュールからフルーリュスへ向かい、その後でこの2つの部隊は合流してランザールを攻撃する一方、分遣隊はシャトレとモンティニーの橋を奪う。
ラトゥール指揮下の第2縦隊は歩兵9個大隊と騎兵16個大隊から成り、シャサール農場を出発してアッピニー、ワニェー及びその間の高地へと進み、それからゴスリーとロンビューの森(ゴスリー東方)に向かう。第3縦隊の歩兵7個大隊と騎兵12個大隊はクォスダノヴィッチの指揮下に入り、可能な限りメレ村を脅かし、テュメオンへの示威行動をしたうえで、最初の2個縦隊の成功を利用できるよう備える。
第4縦隊はヴァルテンスレーベン率いる歩兵9個大隊と騎兵12個大隊で、連合軍の右翼をカバーしたうえでクールセルを奪い、他の縦隊の進展を利用すべくマルシエンヌ=オー=ポンでフランス軍の退路を断つ。この目的のため、彼らは砲兵を
エスピネットの高地 へと移動させる。予備砲兵の一部はヴァルテンスレーベンが使用できるようにする。
第1縦隊の出発は午前2時、第2は2時半、第3は6時で、第4は午前2時にクールセルを攻撃することになっていた。司令官は第2と第3縦隊の近くで行動するという。
ここまでの展開を見ると、両軍とも後のフルーリュスの戦いにかなり近い動きをしていたことが分かる。特にフランス軍の配置はそっくりで、マルソーの部隊の位置から始まり、そこから順にルフェーブル、シャンピオネ、モルロ、クレベールと並ぶところまで基本的に一緒の配置と言っていい。唯一異なるのは、この時点でまだシャルルロワが陥落していないため、アトリが連合軍主力との交戦には使えない状態になっているという部分くらい。
連合軍は指揮官がかなり異なっているものの、こちらも似たような展開で戦おうとしている。フランス軍の布陣に合わせて戦線全体に満遍なく攻撃を浴びせようとするあたりは、後にコーブルクが採用した作戦と基本的に同じだ。違うのは縦隊の数(16日の戦闘は4つ、フルーリュスの戦いは5つ)や指揮官(16日に縦隊を指揮していたラトゥールやヴァルテンスレーベンは、フルーリュスの戦い当日は指揮を執っていない)だが、大雑把に言えば似たような作戦だったのは間違いないだろう。
興味深いのは、この戦いの時にシャルルロワ南西のルヴロワにいたオラニエ公が、わざわざ大回りするようにフランス軍の北側に移動したうえで展開したことだ。ナミュール方面にいたボーリューの部隊と連携をしたうえでフランス軍を攻撃するためにこのような移動をしたのかもしれないが、フランス軍のサンブル渡河から4日たってようやく攻撃できたのはこの下準備に時間がかかったせいでもある。こうした連合軍の動きの鈍さは、後のフルーリュスの戦いにおいて攻撃がシャルルロワ陥落後になってしまった点ともつながっているかもしれない。
長くなったので以下次回。
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