キャンセル・カルチャー21

 先週のことだが、米国で新しいキャンセル・カルチャーのネタが発生した。今回、話題になったのはドーキンス絡みの動き。なんでも25年前にもらった賞について、与えた側が剥奪するという決定を下したという。
 キャンセル・カルチャーといえば昨年、ピンカーがターゲットになった動きが話題になっていた。それ以前から似たような動きはあったのだが、日本でも有名な学者が標的になったためもあってか、それから日本語記事が出てくるなど色々と話題になった。足元でもキャンセル・カルチャーという言葉は、例えばツイッターなどでもかなり頻出するようになっているものの、どうもはっきりと意味を理解せずに使っている人が一定数いるように見受けられる。英語をそのままカタカナにしたためか、分かりにくい用語になっているのかもしれない。
 キャンセル・カルチャーは、上記日本語記事に書かれているような「著名人の過去の言動やSNSの投稿を掘りかえして批判を行い、本人に謝罪を求めたり地位や権威を剥奪するように本人の所属機関に要求したりするような振る舞い」のことだ。最近紹介した中では、グレゴリー・クラークの講演が延期された例もその一種と言える。発言の場を奪う行為は「ノー・プラットフォーミング」と呼ばれるが、クラークの例はまさにこれだ。
 ドーキンスの場合は既に2016年にこのノー・プラットフォーミングの標的になっているのだが、今回はまた別口。山形浩生氏のツイートにある通り、全米ヒューマニスト協会(American Humanist Association)が与えた1996年の賞を今回剥奪する、という動きである。その少し前にドーキンスが行ったツイッターでの発言がその発端だ。
 山形氏のツイートにもある通り、ドーキンスの指摘は「男が『心は女だから女扱いしろ』と言うのはトランスと賞賛されるのに、白人が黒人として活動したら石を投げられる」という問題について議論しよう、というものだ。背景にあるのはこちらの記事で紹介されている人物を巡る論争。「自分は黒人である」という認識を持っていた白人が、「人種を黒人だと偽っていた」と批判され全米黒人地位向上協会の支部長を辞任したという話だ。
 ゲノム的に白人とされる人物が黒人を名乗ると批判される。だがゲノム上の男性がジェンダーは女性だと名乗ればそれを認めない方が批判されるのはどういうことだろうか、というのがドーキンスの問いかけだろう。彼自身はあくまでアカデミックな観点からの論点提示をしたのであり、トランスジェンダーを蔑視する意図はないと追加でツイートしているのだが、どうやらそうした言い分に対して協会は耳を傾けなかったようだ。協会はドーキンスが「過去数年にわたり、科学的な言説を装って疎外されたグループを貶めるような発言を積み重ねてきた歴史がある」として、過去に与えた「ヒューマニスト・オブ・ザ・イヤー」を剥奪した
 もちろん、こうした対応をすれば、当然その反動が出る。ピンカーの時もそうだったが、今回も同じだ。ドーキンスの応援に駆け付けたのはまさにそのピンカー(2006年のヒューマニスト・オブ・ザ・イヤー受賞者)であり、彼は2011年のヒューマニスト・オブ・ザ・イヤー受賞者であるレベッカ・ゴールドスタインとともに、協会に対する抗議の手紙を公表した。
 彼らは協会が公表しているヒューマニスト・マニフェストIIIに書かれている「理性に導かれたヒューマニズムのライフスタイル」に、今回の決定が反していると指摘。「著者の示した議論に取り組もうとするのではなく、著者を悪者扱いするのは、その議論に対して理性的な反応ができないことを自白しているようなものだ」と皮肉を投げかけている。
 また哲学者のダニエル・デネット協会の対応に批判的なツイートをしている。協会はドーキンスの示した「ポリティカル・コレクトネスの規範における矛盾」について否定することで、まさにドーキンスが指摘したような混乱した思考の実例を提供したのだ、というのがツイートの内容。こちらも協会の態度に対する皮肉だ。
 皮肉を言われてしまうのも仕方ない面がある。こちらの記事に書かれているのだが、かつて協会は、特に宗教勢力を相手に、その非理性的な態度に対する厳しい批判を浴びせ、常に論争をふっかけてきたのだそうだ。ところがその協会が、今回は論争に応じるどころか、一方的に過去の賞の剥奪を決めた。「ゲッベルスだって自分が好む見解については発言の自由を支持した。スターリンもだ」。協会の対応は彼らと変わらない、という指摘だろう。

 正直なところ、利己的な遺伝子の出版以来、この手の「所謂良識派」的な見解の持ち主と絶えずけんかしてきたドーキンスにとって、今回の出来事は単に「武勇伝が1つ増えた」くらいの意味しかないだろう。同じことはピンカーやデネットといった、既に名声を十分に確立している人々についても言える。
 それでもこうした動きが出てくるのは、前にも記した通りエリート内競争が激化しているためだと思われる。アカデミアのポストは日本だけでなく米国でも足りなくなっており、そうした地位にありつくためならどんな手でも使うという人がそれだけ増えているのではなかろうか。真っ当な議論や科学的手法を通じて評価を高め、それによって地位を得るという方法は、エリート志願者の中でも極めて優秀な人間にしか使えなくなっている。だからそうでない裏技に走る人間が出てくる。また、最近の学生が「甘やかされている」ことが背景にあるとの指摘もある。
 政治の世界でも同じだろう。エリート志願者が少なければ、真っ当な政治を追求することで望む地位にたどり着ける確率が高くなるが、志願者が多い場合、この「本道」は人が殺到して大渋滞を起こす。だから左右両極など敢えておかしな道を進み、ライバルの少ないルートで目標に向かおうとする人間が増える。加えて、普通の時代ならそういう連中はあまり大きな支持を得ないのだが、大衆のウェルビーイングが低下しているような「不和の時代」であれば、過激思想に感染する人間も増える
 ではこの手のポリティカル・コレクトネスは全否定すべきなのか。そう決めつけられないのが難しいところだ。自由な発言を守るべきだとしてあらゆるヘイトスピーチも容認してしまうと、今度はそのヘイトスピーチの向けられる対象者をどう守るべきかという問題が出てくる。少なくとも、そうした人々を守るという価値観が近代以降になって次第に世の中に広く受け入れられるようになってきたのは事実だし、そのこと自体を悪と見なす人はいないだろう。
 発言の自由とヘイトスピーチからの保護、この両者を並立させるためには、その時代の価値観に合わせてどこかで境界線を引く必要がありそう。問題は人によって境界線を引く基準となる価値観にずれが存在すること。おそらく完全に一致する境界線など、永遠に実現することはないだろう。今回のドーキンスの件に限れば協会側がやりすぎだとは思うが、ではどこまで発言の自由側に線を動かすべきかと言われると明確な答えはない。とりあえず、アカデミアの世界では議論の余地が狭まるのは拙いとは思うが。
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