歴史データ本

 Seshatで集めたデータの一部を書籍化したFiguring Out The Pastを購入した。プレビューを見れば分かるのだが、基本的にSeshatのデータの一部を切り出して簡略に紹介したものが大半を占めており、実際のところネット上で閲覧できるSeshatのデータページを見た方がより多くのデータに触れることはできる。加えてSeshatページにある脚注がこの本にはないため、データの背景を知りたいと思った場合でもあまり役に立たない。
 にもかかわらずこの本を購入したのは、最後の方に「ランキング」及び「地域的伝播」についてのまとめが載っていることが理由だ。後者の伝播については既に火薬兵器に関する流れを個別に調べているが、他の様々な技術や風習などがどのように広がったかをすぐに確認できることは、何かの役に立つ可能性がある。それに対し「ランキング」の方はトリビア的な楽しみ方しかないと思うが、具体的な数値をチェックすることでSeshatに対する信頼度を測る事例にはなるかもしれない。

 伝播については「官僚機構」や「紙幣」など色々なものが紹介されているが、ここでは火器ではなく「火薬」の拡大について載っている地図(p253)を特に確認しておきたい。中でも気になるのは1300年以前に火薬が広がっていた地域であり、色々とツッコミどころがある。
 例えばこの時期にイタリアで火薬があったと記している一方、イングランドに火薬が伝播したのが1300年以降となっているのは納得がいかない。ロジャー・ベーコンはイングランドの人間だったはずだ。確かに彼は教皇に宛てた著作の中で火薬に触れているが、だからと言って火薬がイタリアにあってイングランドになかったという結論にはならないだろう。
 インドにこの時期に火薬があったとされている理由は、おそらくこちらで紹介した「ハワイと呼ばれたロケット」の伝播が理由だと思う。一方、ジャワ島でも1300年以前に火薬が伝わったという部分は微妙。確かにこの時期にモンゴル帝国がジャワ遠征をおこなっており、その際に火薬兵器が使われたようだ。だがそれを自国の武装にしたと言われるガジャ・マダが宰相の地位にあったのは14世紀になってから。実際に採用したのは1300年より後ではなかろうか。
 他にモンゴルが支配していた地域、あるいはアラビア半島などイスラム地域は、幅広く1300年以前に火薬が伝播したとされているが、これもどこまで史料に基づいているのかが分からない。以前にも指摘したように、モンゴル軍が西征の際にどの程度、火薬を使用していたかについては明白でない部分が多い。できればどんな史料を使ってこの結論を導き出したのかを知りたいところだが、この本にはそうした記述がないことは既に述べた通りだ。
 もちろん役に立ちそうなものもある。騎兵の拡大(p251)は以前、Cliodynamicsに掲載したMapping the Spread of Mounted Warfareを使ったものだろうし、同じく製鉄の拡大(p250)もAnvil Age Economy: A Map of the Spread of Iron Metallurgy across Afro-Eurasiaの地図を流用したものだと思われる。この手のソースがはっきりしたデータは安心して使えそうだ。
 農業の拡大(p244)も昔から広く研究テーマとなっていたものだけに、それなりに信用できるだろう。文字の拡大(p247)についても、具体的な考古学的証拠を使いながら議論ができるため、そんなに間違ったデータにはなっていないと思う。道徳的な宗教の拡大(p248)に関しては、まさにそれをテーマにした論文を書いているので、こちらも当てになりそうだ。

 一方のランキング。こちらは特に問題なさそうなものが大半だが、一部に非常に気になるものが含まれている。古代、中世、近代初期のそれぞれの時期、及び産業革命前の全期間について様々なランキングを出しているのだが、例えば国家の面積(p217)やその人口(p219)などのランキングについては特に異論はない。もし第2次大英帝国がこのデータに含まれれば、面積は彼らが最大になっていた可能性があるが、産業革命前に絞るとモンゴル帝国が最大になるのは仕方ないだろう。ただ、この手のランキングでよくある「モンゴル帝国」と「元」「ジョチ=ウルス」「フレグ=ウルス」が一緒にランキングに出てくるという点については疑問は残る。
 人口ランキングでは多くの時期において中国が上位に並ぶ。これまたあまり違和感のない数値だ。古代についてはマウリヤ朝がトップになっているが、人口推計が2000万人から1億人と幅がありすぎるため、正直言ってランキングの意味があまりない。一方、人口の多い都市(p221)だと江戸が140万人でトップになっている。こちらで紹介されている説の中には、江戸に輸入された米高の年平均が140万石だったことから140万人という推計値を出している。ただ2番手以下に推計100万人の都市がいくつも並んでいるところを見ても、あまり全面的に信用できるランキングとも言い難いようだ。
 「大きな建物」(p224)と「高い建物」(p226-227)のランキングについても特に異論はない。前者はアジアが多く(古代だと日本の古墳も入ってくる)、後者は欧州ばかりになるのは興味深いところだが、これらのデータはやはり考古学的に確認できるものが多いため、それほどおかしな結果が導き出されるとは思えない。トップに万里の長城が出てくる「最もコストのかかった建造物」(p227)ランキングについても同じことが言える。
 問題は「軍の規模」(p229)ランキング以降だろう。このあたりから文献史料に頼る度合いが高まり、それだけ信用度について疑念が出てくる。例えばこのランキングの場合、トップに出てくる隋の動員した兵力は100万人と、2番手に出てくる唐(20万人から45万人)に比べて極端に大きい。だがこの隋の数字は史書である隋書の巻4(53/159)にはっきり出てくる数字でもあり(正確には113万3800人)、だから採用してもおかしくない、ように見える。
 残念ながら話はそう簡単ではない。単に史書に載っている数字を採用していいのなら、テルモピュライの戦いにおけるペルシャ軍は260万人に達していた、という結論も出せるからだ。もちろんヘロドトスの数字が史実であるとは到底思えないが、だとしたら隋書の数字をどこまで信用できるかという点についてきちんと調べる必要があるだろう。Seshatによると当時の隋の人口は4600万人。男性人口のおよそ5%動員などということが現実に可能だったのかどうかを考えた方がよさそうだ。
 それに比べればアステカにおける「1回の儀式で犠牲にした人身御供」(p230)の数、2000~4000人はまだ信用できそうだ。1487年のある儀式では8万人が犠牲になったとの主張もあるのだが、実際にキリスト教の伝道者がアステカの老人に聞いた話をまとめた史料には4000人という数字しか出てこないという。
 そして最大の問題が、その社会における祭儀に参加した数だ。驚くべきことに元帝国のカーンの誕生日には7500万人から8500万人が参列した、とこの本には書かれている(p233)。総人口が6000万~8500万人と推計されている元帝国において、だ。マルコ・ポーロ(The Travels of Marco Polo, p197)も、修道士として元を訪れたオドリコの記録を基に架空の旅行記を書いたジョン・マンデヴィル(The Voiage and Travayle of Sir John Maundeville Knight, p253)ですら、そんな数字は出していないというのに。いくらなんでもこの数字は怪しいと思う。
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