ペトロダラー

 1970年代に米国内で永年サイクルの転換が生じた、というTurchinの説については何度も紹介してきたし、そうしたデータが多数あることも指摘している。Turchinはこの変化を主に労働力の需給から分析しており、さらに米国史全体を見ると移民の影響が大きいのではないかと指摘しているが、実際に1970年代の変化の原因だけ見ると必ずしも移民ばかりが理由とは言えないように見える。いずれにせよTurchinが最も重視しているのは、米国内での労働需給だ。
 一方、1970年代の変化をもたらした主な要因は、むしろ国際的な通貨システムにあるという主張も存在する。この時期に通貨システムが変わり、それが米国の所得上位層を潤した一方、下位50%には多大な負荷をかけるようになった、という理屈だ。どうやらWilliam R. Clarkが記したPetrodollar Warfare(邦訳:ペトロダラー戦争)という書籍などを通じてこの理屈が唱えられたらしく、こちらのwikipediaには簡単な説明も書かれている。重要なのはそこに出てくるペトロダラー・システムというものだ。
 ペトロダラー・システムについては、ものすごく長いこちらの記事が参考になる。このシステムはそれに先立つブレトンウッズ体制に代わるものとして作り上げられた。ブレトンウッズ体制では、最大の金の正貨準備を持つ米国のドルが金と固定され、他国通貨はドルと固定されることによって国際的な取引がなされるようになっていた。米ドルが基軸通貨となり、その信用は金との兌換性によって保証されていた格好だ。ただし米市民は通貨を金と交換することはできず、兌換できたのは外国政府だけだったそうだ。
 だがこのシステムは、米国の正貨準備が減ることですぐに行き詰った。1960年代には米国の保有する正貨準備を、外国当局が持つ米国の債務が上回るようになっていた。つまり外国当局が揃ってドルの金への交換を要求すると米国はそれを支払いきれない状態になっていた。1971年に生じたニクソン・ショック(米ドルと金の兌換停止)は、この事実を単に世界に宣言しただけ、ともとれる。
 なぜそうなったのか。理由はトリフィン・ジレンマとして知られるのだが、要するに米国が単独で国内及び世界の需要を満たすだけの通貨を供給することはできないためだ。金本位制とつながっていたブレトンウッズ体制においてはそれは正貨準備の減少という形で、米国の資本勘定の欠陥として現れた。金との兌換性を維持する限り、米ドルが基軸通貨として世界中の通貨需要に永遠に応じることはできないし、実際にできなかった。
 ブレトンウッズ体制が崩壊し、新たに変動通貨制が定着したが、その際にドルを基軸通貨の地位にとどめたのがペトロダラー・システムだ。具体的には米国とサウジアラビアが1974年に結んだ合意が、このシステムの基になっているという。サウジは石油をドル以外の通貨では売らない。代わりに米国はサウジに対する安全保障を提供する。現代社会において石油はあらゆる国にとって必要な資源であり、それがドルでしか売られなくなったことで、ドルは基軸通貨のポジションを維持するのに成功した。最終的にはサウジ以外のOPEC加盟国もこの合意に加わり、ペトロダラー・システムが完成した。
 この時点でドルはそれまでの金本位制から管理通貨制度へと移行しており、ブレトンウッズ体制の時に生じたような「正貨準備が足りなくなる」という問題は生じなくなっていた。だがトリフィン・ジレンマは消えたわけではなく、今度は正貨準備という資本勘定の代わりに米国の経常収支が恒常的な赤字に陥るという現象が生じることになった。そうしなければ他国に必要なドルが供給されないからだそうだ。
 米国の経常赤字は最初は貿易赤字から、後には資本収支の赤字も加わって加速的に増えた。貿易赤字は国内の産業が海外へ移転することを意味し、これは米国内の労働者の仕事が失われることにつながる。さらにそうやって手に入れたドルを、諸外国は再び米国へ投資するのに使った。中心となったのは米国債だが、それ以外にも米国の株式などにも投資された。労働者の収入が減る一方、株を多く持っている金持ちはさらに資金の流入で資産価値が上がる流れが続き、これが米国の経済格差の拡大につながっていった、という理屈だ。
 こちらの一連のツイートではこうした流れが簡単に説明されている。もしこの見解が正しいのだとすれば、1970年代に起きた変化は、内生的な原因というより、国際経済の中で主導権を握ろうとした米政府当局者の判断に由来することになる。もっと言うなら、当時の米国の為政者たちは、米国内上位層の利益を確保するために、下位層を犠牲に差し出すような政策を採用した、ということになる。
 ペトロダラー・システムについて説明している長い記事の中では、既に男性の所得中央値では4人家庭で必要とされる支出が賄えなくなっていることを示したグラフが載っている。住宅や医療、乗り物、教育などの費用だけで、中央値を上回るほどのコストがかかるようになってしまっている。所得平均値と中央値の格差は先進諸国の中でも最大級で、平均値を大きく押し上げる金持ちの割合が他の先進国より大きいことも分かる。
 さらに米国の社会的流動性は先進国の中でも最も低い水準になってしまっているらしい。今やアメリカは他のいずれの先進国よりも「どの家庭に生まれたかが人生における経済的な潜在力を決める」国となっているわけで、アメリカンドリームよ今いずこだ。そうした米国の現状が様々な問題を引き起こしていることは何度も記している(こちらはほんの一例)。もちろん米国の中には引き続きペトロダラー・システムの恩恵を受けている人がいるのは間違いないが、国全体として考えるなら、このシステムのメリットがなお継続するに値するかどうかの判断は難しくなってきているだろう。

 上記の記述が正しいか、私には判断できない。そもそもペトロダラー・システムは「イラク戦争はイラクが石油をユーロで売ろうとしたのに対し、それを妨げようとした米国が始めた」という、いささか陰謀論的な議論が含まれている。また長い記事の中でも触れられているように、この論者たちはペトロダラー・システム後の通貨システムとして妙にビットコインを持ち上げており、一種のポジショントークではないかとの疑いが消せない。
 この記述が正しいとして、足元で米国にとってのメリットが薄れているペトロダラー・システムの先行きもまた不明だ。ニクソン・ショック時と同様に急激に終わることも考えられるが、そうはならず既存システムが緩やかに綻んでいく可能性ももちろんある。ただ、いずれにせよ当面はドル安傾向が続くのではないか、と例の長い記事は指摘している。
 ペトロダラー・システムが始まった1970年代以降、ドルが急激に高くなった場面は3回あった。最初は1980年代で、次は1990/2000年代、その次が2010年代後半から足元の時期だ。ドルが高くなると世界経済にはマイナスに働く。成長率の高い新興国でドル不足が生じ、彼らの成長が鈍化することで他国にもその影響が及ぶ。米国自身にとってもドル高は成長の止まる時期であり、企業利益はドルが急上昇する局面では頭打ちになっていたようだ。
 ただ足元のドル高傾向はそろそろ収まるのではないか、というのがこの記事の予想。FRBは金利を下げ、量的緩和に踏み切ってドルを切り下げようとする。ペトロダラー・システムに加わっている他国の中には負けじと通貨引き下げに取り組む国もあるだろうが、トータルとしてみれば次はドルが下がる場面と踏んでいるようだ。この記事が書かれたのは昨年だが、今後3~5年程度はドル安と、それに伴う景気の回復が期待できるという。また通貨の引き下げによって、ドルに限らず貨幣より現物の方が価値を増すともにらんでいる。最近の株高は、そうした流れを先取りしようとしているのかもしれない。
 そうした循環的な動きではなく、ペトロダラー・システム自体がかつてのブレトンウッズ体制のように終焉を迎える可能性はどのくらいあるのだろう。上に述べたドル安が進んだ後に、世界的な通貨システムが次第に「分散化」していく、というのがこの記事の見立て。実のところ、既に中国やロシアは原油をはじめとした商品取引に米ドルを使わない取引を増やしている。確かに中国はかつては米国債の最大の投資家であり、ドル建ての外貨準備を大量に積み上げていたが、足元はむしろ他の通貨を使う方に動いている。
 米ドルではなくユーロや人民元、ルーブルによる化石燃料取引が増えれば、そもそも米ドルに対する需要はかつてほどではなくなる。ペトロダラー・システムを通じて基軸通貨として圧倒的な価値を誇っていたドルの地位は下がっていくわけだ。おまけにトリフィン・ジレンマに苦しんでいた米国自体が、この流れを加速する可能性もあるという。米ドル以外での化石燃料取引を容認し、推進するような動きを彼らが見せれば、その時点でペトロダラー・システムは終焉を迎えることになる。
 バイデン大統領が半導体分野で改めて競争力強化を打ち出すなど、これまで基軸通貨のため貿易赤字を受け入れていた米国がその方針を見直すのではないかと思われるような動きは確かにある。またペトロダラー・システムのメリットとされる「輸入原油の為替リスク回避」も、米国がシェールオイルもあって足元で原油の純輸出国に転じたことを踏まえるなら、その効果は減っている。米国がペトロダラー・システムを放棄し、新たな国際通貨システムへ移行する時期が、もしかしたら迫っているのかもしれない。
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