絶望死のアメリカ

 「絶望死のアメリカ」読了。自殺、薬物、アルコールという死因を合わせた絶望死については前にも触れたが、米国で起きている平均余命の低下という現象を巻き起こしている大きな要因となっているのが、まさにこの絶望死だ。この本ではその絶望死の現状を説明するとともに、原因が何であるかについての分析、そして必要な対応策について論じている。
 絶望死の内容についてはこちらの書評に載っているグラフを見るのが理解しやすい。中年の非ヒスパニック白人を大卒以上とそれ未満に分けたとき、上記3種類の死亡率の差が1990年代末頃から急激に広がっている。大卒以上はほとんど変化がないが、それ未満の死亡率が急激に上昇しているのが分かるだろう。自殺とアルコール関連の病気は倍以上、そして薬物中毒は10万人中ほとんどゼロだったのが、最近は60人近くまで増えている。
 2つ目のグラフはさらに印象的だ。こちらは絶望死についてコホート別にまとめたグラフが載っているのだが、大卒以上が違う世代であってもあまり変化のない状況が続いているのに対し、大卒未満は新しい世代ほど絶望死の度合いが高まっていく様子が明確に見られる。1945年生まれあたりまでは大卒以上と比べてもそう変わらないレベルにとどまっているのだが、1950年生まれあたりから絶望死の率が上向き始め、後はもう上がる一方となっている。
 1950年生まれの人間が大卒未満で社会に出てきた時期は1970年前後となる。その時期に米国内で大衆のウェルビーイングの流れが変わった、という指摘はこれまでも紹介している。Turchinによればこの時期は永年サイクルにおいて統合局面から解体局面へと移行した時期だそうだが、ある意味その見解を裏付けるデータがこういうところにも表れていると解釈できそうだ。
 ただし1950年生まれの人間が中年になるのはもっと後の1990年以降だ。実は1970年頃から始まった大衆ウェルビーイング悪化の影響を最初に受けたのは、足元で絶望死が問題になっている「非ヒスパニック白人」たちではなく、むしろ黒人たちだったようだ。特に大都市部に住んでいた黒人たちは、1970-80年代にクラック・コカイン禍に巻き込まれ、多くの死者を出した。本の著者であるケースとディートンによれば、米国の変化による悪影響を最初に受けたのは社会の最も弱いコミュニティーであり、それが黒人たちだった。
 続いてその悪影響に巻き込まれたのが、白人の非大卒という黒人たちの次に弱いコミュニティーであり、それが足元の絶望死増加という形で表に出てきた。それだけではない。白人非大卒の中には死には至っていないものの、健康状態が悪化している人もまた増えている。健康状態が「いい」と答えなかった人や、心理的苦痛を味わっている人の割合は、これまた最近になって白人非大卒の方が非常に高くなっている。絶望死の増加は、そうした苦痛の増加に伴って起きている現象ではないか、と著者らは考えている。
 実際、痛みの増加に関する郡別の分析は、よく見かける平均寿命の低下を示す地図と似通った分布を示している。この痛みというものは客観的に測る方法がないのだが、自己申告によれば60代の高齢者よりも40~50代の中年層の方が痛みを訴える割合が高くなっているそうで、白人非大卒の社会にかなり広がりを見せているようだ。

 なぜ絶望死が増えているのだろう。著者らはかなり広範な社会的背景があると見ているのだが、個別の要因についても言及している。特に問題視しているのはオピオイド。モルヒネやヘロインなどを含むこの薬剤は昔から鎮痛剤として使われているが、一方で依存症の問題もあり、大半の国では患者に投与する場合もかなり厳密な管理が行われている。ところが米国では1990年代後半から「痛みの緩和」を目的に簡単に処方されるようになり、それが薬物中毒の問題まで引き起こすに至ったそうだ。
 こうした「医原性」の中毒拡大は米国独自の問題であり、著者らが一番批判している部分である。アヘン戦争においてアヘンを売って儲けていた商人たちと、オピオイドを製造している製薬会社を並べているほどで、製薬会社や彼らと組んだ医者たちが、自分たちの利益のために人々の健康を悪化させているのではないかとまで見ている。それに比べると自殺の大きな手段となっている銃については明白に批判はしていない(免責してもいないが)。
 加えて、テーマが死に関するものであるためか、米国の医療制度に対しても批判的な言及が目立つ。実際問題、米国は世界でもトップクラスの医療費国家であり、2017年の医療費支出はGDPの18%弱と、2番手のスイス(12.3%)と比べても突出して多いことが分かる。そのくせ平均寿命はスイスより5年も短い。医療に関して言えば米国は極めて投資効率の悪い国家なのは間違いないだろう。
 オピオイドや医療分野におけるこの現象について、著者らは「ノッティンガムの代官式再分配」と名付けている。ロビン・フッドは金持ちから金を奪って貧乏人へと再配分しているが、それとは逆に貧乏人から金を奪って金持ちに再配分する、という意味だ。この再配分を支えるのは業界や企業によるレントシーキングであり、彼らの要望に応えて制度を「ノッティンガムの代官式」に唯々諾々と変更してきたワシントンの政治家たちだ。
 もちろん絶望死の原因は医療や製薬会社だけではない。格差の拡大といった経済的要因だけでもない。割のいい仕事に就く見通しが低下した非大卒白人たちは結婚相手が見つからず、孤独だったり母子家庭といった問題に直面しやすくなる。人々を支える宗教的なコミュニティーにも昔のような力はなく、人生そのものへの自己評価が低くなりやすくなる。そういった社会学的な問題も含め、中年の非ヒスパニック白人たちの社会が崩壊しつつあることこそ、絶望死が増えている原因ではないか、と著者らは指摘する。

 では対策はどうすればいいのだろうか。著者らは資本主義や民主主義を否定する必要はないとしている。ピケティらが主張するように富裕税を課して大金持ちから労働者に金を配る「ロビン・フッド式」の再配分をすることに対しても、必ずしも同意してはいない。資本主義はシュンペーター的なイノベーションを通じて、特定個人だけでなく多くの人に便益をもたらす仕組みであり、そういったインセンティブまで否定するような方法は望ましくないとの見解だ。
 それでもさすがにノッティンガムの代官式のレントシーキングは止めるべきだと言っている。特にオピオイドに対する評価は厳しい。また医療分野については、自由競争をやめて制限をかけてもいいから、もっと全体最適を目指す制度にすべきだとも指摘している。基本的に著者らが評価しているのは、米国であれば20世紀前半の革新主義時代ニューディール期の改革であり、19世紀の英国で見られた改革など、穏健な対応策。逆にScheidelが指摘するような「格差を大きく減らすのは暴力のみ」といった過激な見解に対しては否定的だ。
 そうした態度に対しては、「怒れるひとびとにどこまでアピールできるかは疑問」という見方がある。確かに、1月の出来事を思い浮かべても米国では民主主義に対する不信感は根強いし、資本主義に対しても著者らが期待するほどその「未来」に希望を抱いている人が多いかどうかは微妙。少なくとも若者の間ではそこまで評価は高くない
 何より著者らは、米国で労働者階級が窮地に陥ってきた背景にある成長率の鈍化を指摘しているが、そこを再び上向かせる方法については何も述べていない。もちろん成長率が鈍化しても米国ほど絶望死が増えていない先進国は多くあるので、絶望死問題だけに限れば成長率の再向上は必要条件ではないと言える。それでも低い成長率の下でうまく再分配を進めることの難しさは間違いなくあるだろう。収穫逓減社会におけるアサビーヤ(ソーシャルキャピタル)の低下をどうやって抑制し、崩壊している非大卒白人の社会をいかに再建するのか、話は簡単ではない。
 この本のテーマはあくまで絶望死であり、それを減らすだけなら大きな変革なしでもたどりつける可能性はある。でも絶望死が多くない欧州や日本の先行きが明るいと思っている人はあまり多くないだろうし、著者らも欧州には欧州の問題があることは認めている。絶望死だけなら改善できるかもしれない。だが絶望死を生み出した背景まで全て解決しようとすると、むしろScheidel的な発想の方が現実味があるのではないかという気分になる本だった。
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