コンゴの火薬

 サブサハラ・アフリカの火薬について、今回はコンゴにおける初期の火器に関する史料を調べてみよう。中部アフリカにあり、現在はコンゴ共和国コンゴ民主共和国という2つの国が存在しているが、ヨーロッパ人と最初に接触した頃、この地域に存在していたのは1つの王国だった。
 コンゴ王国は14世紀後半にコンゴ河流域を支配する国家として誕生したという。ポルトガル人が彼らと最初に接触したのは、建国からおよそ100年が経過した1483年。ディエゴ・カンという探検家がコンゴ河を遡ってこの黒人王国と接触を果たした。彼はコンゴの貴族を連れてポルトガルへ戻り、さらに今度はカトリックの司祭を連れてこの王国へとやって来た。こうして両国の交流が始まった。
 コンゴの王はすぐにカトリックへと改宗し、ジョアン1世と名乗るようになった。彼以外にも貴族たちや宮廷の女性たちがキリスト教徒となったようだが、実際にキリスト教の拡大に最も力を注いだのはジョアン1世の後継者の治世になってからのようだ。後継者であるアフォンソ1世は、王個人や宮廷だけでなく、コンゴ全体をカトリックへ改宗させるべく努力をしたようで、学校づくりなどにも取り組んだ。
 コンゴ王国はその後も長く生き延びた。19世紀の帝国主義時代にアフリカの大半は欧州列強によって分割されたが、コンゴ王国はポルトガルの属国という形でなお生存し、1914年にポルトガルが王国の廃止を宣言することでようやく消えたという。20世紀まで生き延びたという意味では、結構長生きな国家だったのかもしれない。

 コンゴに火薬をもたらしたのはもちろんヨーロッパ人だ。ただし、それがいつ頃もたらされたのかというと、エチオピア同様に明確ではない。コンゴ王国の英語wikipdiaには「ポルトガル人がコンゴに来た時、彼らは即座に、おそらく彼ら自身の指揮官の下で、クロスボウやマスケットなど特殊な武器を使う傭兵戦力として、通常のコンゴの戦闘序列に付け加えられた」とあり、接触直後からポルトガル人が火器を使っていたのではないかと想定している。
 Encyclopedia of Blacks in European History and Cultureには、1514年に書かれた手紙の中で、アフォンソ1世がポルトガルの傭兵を雇ったが、彼らは軍務において怠惰かつ臆病だったと言われた、との話が載っている(p19)。この手紙はおそらく、1514年10月5日付でアフォンソ1世がポルトガル王マヌエル1世に宛てて記したものだろう。その手紙は英訳がネット上に存在する。
 それによるとムブンドゥとの戦争が起きた際に、ポルトガル王が送って来た傭兵たちのうちコンゴ軍とともに行動しようとしたのはたった3人で、残りは「我々[コンゴ軍]に決して同行しようとしなかった」(p30)。また既にコンゴにいたポルトガル人たちの中でも軍と一緒に行動したのは7人しかおらず、しかもそのうちディエゴ・アロンソという石工は途中で「空腹で死にかけている」(p31)といって引き返してしまったそうだ。コンゴの王が呆れるのも仕方ないような行動である。
 ただし、この手紙の中で彼ら少数のポルトガル人がどのような武器を使っていたかについての言及は見当たらない。この時期のポルトガルに既に火器が存在したことは間違いないが、この戦闘でコンゴ軍と同行した10人以下の面々がそうした武器を持ち、それを戦闘で使ったと断言するのは難しい。可能性はあるが明確な証拠とは言い難い。

 よりはっきりとしたコンゴにおける火薬兵器使用の証拠は、16世紀の後半になると出てくる。Medieval Africa, 1250-1800によると、この時期からコンゴの東側国境においてヤガと呼ばれる部族がくり返しコンゴ領に侵入するようになり、コンゴ王国は彼らへの対応に苦労していた。ベルナルド1世は彼らとの戦闘で戦死し、その2代後のアルヴァロ1世は1569年にヤガによって首都を追われ、コンゴ河下流の島に逃げ、ポルトガルに救援要請を出すに至った。
 彼らの苦境は1571年2月にリスボンに伝わり、ポルトガルは600人の兵士を送り込むことを決定した。サン=トメの総督であったフランシスコ・デ=ゴウヴェイア・ソトマヨルが率いたこの兵士たちの「訓練された手による火器を始めて経験し、気力を奪われたヤカの部族は、すぐ東方国境の拠点へと押し戻された」(p173)。ポルトガル軍はこうして再びアルヴァロをコンゴの王位に戻した。以後、コンゴ王国は2度目の安定期に入り、17世紀半ばまでは落ち着いた政情が続いたという。
 この話を裏付ける史料はどこにあるのか。Jeremy Blackの書いたWar in the Worldによると、フィリポ・ピガフェッタの報告書が論拠となるらしい。彼はイタリアの数学者にして探検家という人物で、彼が1591年に記した報告書の中に、コンゴの火器使用の話が出てくるという。
 Relatione del reame di Congo et delle circonvicine contrade, tratta dalla scritti & ragionamenti di Odoardo Lopez Portoghese per Filippo Pigafettaのp60-61に、このポルトガル軍によるコンゴ遠征の話が出てくるのだが、文中に記されているarchibugiという単語は、イタリア語のアルケブス(archibugio)の複数形である。
 ピガフェッタの報告書は19世紀に英訳本が出ている。A Report of the Kingdom of Congoというその本の該当部分を読むと、コンゴの救援要請を受けたポルトガル王室は、インドとアフリカで戦闘経験がある「フランシスコ・デ=ゴヴァ」という隊長の下、600人の兵士と数多くの冒険者を伴ってコンゴへ向かい、国王をその玉座にもどした。「ただし彼らは数よりも、銃の騒音と力によって征服を成し遂げた。ヤガたちはこれらの火器に大いに恐怖した」(p99)という。

 ピガフェッタ自身はコンゴにいったことがあるわけではない。そもそも彼は1571年のレパント海戦に参加していたそうで、ゴウヴェイアの遠征時には遠く離れた欧州にいた。ピガフェッタはポルトガルの修道士であるドゥアルテ・ロペスの報告書をまとめただけにすぎない。そしてこのロペス自身がコンゴ王国に到着したのは1578年であることが、この報告書に記されている(p1、英訳本はp5)。つまり、エチオピアにおけるグランの活躍を描いたFutuh Al-habasa(アビシニア征服)とは異なり、戦闘時に現地に居合わせた目撃者の証言ではない。その意味ではエチオピアにおける事例ほど確信を持って史実であるとは言い切れない史料だ。
 とはいえこうした史料が存在すること自体は重要だ。そもそも日本における「鉄炮記」にしても、1543年の出来事について1606年に編纂した書物である。今のところ西欧からの鉄砲伝来についてはこの記録が最も信頼できるとされており、通説として広く採用されている。
 コンゴにおける火器の使用については、従って遅くとも16世紀後半には行われていたと考えていいだろう。エチオピアにおける使用例に比べれば数十年ほど遅れているわけだが、それはたまたま戦争になった時期がエチオピアとコンゴではずれていたため。おそらくそれ以前から両国に火器が流入していた可能性はあるし、それをもたらしたのが西欧勢力やそこから火器を導入したイスラム勢力であったことは十分に考えられる。
 つまりここまで調べてきたのは、あくまで文献で確認できる最古の事例でしかない。文献に載っているのが本当に最も古い事例であるという証拠はないし、逆に文献に出てきたからといって火器がそれ以後一気に普及したとも限らない。あくまで15世紀初頭の対馬の事例のように、「遅くともこの時期には存在していたのでは」という点を確認するための調査であることは忘れてはいけない。
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