フルーリュス 6

 DupuisのLes opérations militaires sur la Sambre en 1794ではフルーリュスの戦いについて、単にその経緯を記すだけでなく、いろいろな評価もしている。例えば会戦前に連合軍が出した命令についての分析などだ。
 コーブルクは攻撃に際して全ての部隊を5つの縦隊に分け、手元に予備を全く残していない。おまけに5つの縦隊の配置を見ると、歩兵24個大隊、騎兵32個大隊から成る第1縦隊がジュメからエスピネットまでの戦線に、第2から第4縦隊までの歩兵23個大隊、騎兵50個大隊がゴスリーからカンピネールまでの地域に、そして歩兵13個大隊と騎兵20個大隊から成る第5縦隊が前2者の担当戦線に比べてほぼ半分の広さとなるカンピネールからコピオー森までの地域に投入されている。つまり「戦力と攻撃すべき戦線の長さとが、戦場のどの部分においても同じ」だったのである。
 ここからDupuisは、コーブルクが部下の縦隊指揮官たちに戦闘を任せてしまい、中央もしくは両翼のどちらかに戦力を集めようとすることに無関心だったのだと結論づけている。ジョミニに言わせればこの戦いにおける連合軍は「共和国軍を同時に全ての地点で忙しくさせる」意図を持っていたとしか思えず、敵戦線の一部をこちらのできるだけ多くの戦力で攻撃するという何世紀にもわたる戦争技術の基本的な合意事項を無視していたことになる。
 連合軍がそうした対応を取った理由について、Dupuisは「6月16日の成功」が原因ではないかと推測している。フルーリュスの戦い前にフランス軍が何度もサンブルを渡河しては撃退されていたことは指摘済みだが、直前の渡河の際には連合軍のオラニエ公がマルシエンヌ=オー=ポンを脅かすことでフランス軍をサンブル対岸へ追い払うことに成功していたのだそうだ。加えて連合軍はその後に1万6000人の増援も得ており、同じことを繰り返せば勝てるという発想があったのかもしれない。
 だがフランス軍の態勢は前回と全く同じではなかった。彼らは野戦陣地を構築して防御を固めていたし、連合軍が攻勢に出る前にシャルルロワを落とし、それによって退却のために何が何でもマルシエンヌの橋を確保しておかなければならないという義務がなくなった。クレベールが率いた左翼がそれによってより柔軟に動けるようになったほか、シャルルロワの封鎖に当たっていたアトリ師団などが全体の予備として活用できた。少なくとも、各縦隊の指揮官にほぼ戦術を任せきりで、会戦中は退却命令を出しただけだったコーブルクとは異なり、ジュールダンは必要に応じてシャンピオネ師団やルフェーブル師団に予備を投入するという決断を会戦中に下している。
 フランス軍は連合軍の動向もよく把握しており、26日に攻撃が行われることは各部隊が認識していた(シャンピオネ師団などがその一例)。またこの時期は大公安委員会が最大の権力を握っていた時代であり、ジュールダンにとっては敗北がそのまま自分の生命にかかわる可能性を感じながらの戦闘になっていた。新しい失敗を自分の首で償わなければならないとすれば、そりゃ最後までしぶとく勝利を追い求めることだろう。
 いずれにせよ、この戦いに「ナポレオンのやり方を特徴づける明確に区別できる局面や、司令官が芸術的に思い付き巧妙に準備した機動の結果として敵の敗北へと至る」ような流れはない。その意味では以前、メスキルヒの戦いで述べたのと同じ特徴が、フルーリュスにもあったことになる。ナポレオンが戦場における兵力の効率性を高める前の時代の戦い。それがフルーリュスだったのだろう。

 次にDupuisが指摘するのが、コーブルクは勝てたのかどうか問題(p372-377)。彼が26日午後に退却を命じたのは、フランス軍捕虜からシャルルロワの陥落を知らされたのが大きな理由だとされている。これ以上、部下を危険に晒す意味はないと判断して退却が命じられたのはおそらく午後3時頃。この時点でオラニエ公の第1縦隊こそクレベールの反撃を受けてアンデルリュまで引き下がっていたものの、他の部隊は引き続きフランス軍への攻撃を行っていた。
 モルロはゴスリーへ退却中だったし、シャンピオネはアッピニーの放棄を強いられていた。カール大公とボーリューのカンピネールへの攻撃は撃退されているところだったが、一方ジュールダンは手元にあった予備を既に送り出していた。もし連合軍が攻撃を諦めず、退却命令を出さずにフランス軍を押し続けていたら、彼らは勝てたのだろうか。
 Prinz Friedrich Josias von Coburg-Saalfeld, Herzog zu Sachsenを書いたWitzlebenはそうは考えていないそうだ。特にフランス軍の数的優位を考える限り、午後3時の時点で連合軍が勝利をつかもうとしていたとは考え難い。帝国兵は勝利を望むがゆえではなく、単に伝統に従って戦っていただけになっていた、という理屈だ。アルノーダンは兵たちが撃退されはじめていたこと、シャルルロワ陥落の報が軍の中でも既に広まっていたことなどから、戦闘継続は不必要な人的損害にしかつながらないと指摘している。シュルツは、既にネーデルランド撤収が決まっていたこの時点で、フルーリュスの戦いは名誉のためだけの交戦になっていたと指摘している。
 逆にまだ勝てると思っていたのはカール大公。戦力を集めてフランス軍を叩けば、まだフランス側が防御態勢を整えていなかったシャルルロワの奪還も可能だったという。ドンホフ伯も7月27日の時点で、帝国軍はそれまでに得ていた優位を捨ててしまったとしている。ヨーク公は、オーストリアが和平の締結を望んでいたからこそ、シャルルロワ降伏を知った時点で彼らは戦闘を諦めたのだと見ているそうだ。中にはヴァルデック公が間違った報告をコーブルクに送ったために退却が決まったとの主張もあるようだが、Witzlebenはこの話を否定している。
 午後3時時点でコーブルクは勝っていたのかそうでなかったのか、それを厳密に調べるだけの史料は残っていないとDupuisは指摘する。むしろ彼が紹介するのは、ジュールダンによる批判だ。ジュールダンによればコーブルクは収穫月7日(6月25日)の午前10時に攻囲軍の砲撃が止まっていたことに気づいていたはずだし、また会戦が始まった直後に右翼で捕虜になったフランス兵からも情報を得られたはず、となる。何より拠点の救出よりも大切な敵軍に対する勝利が手に入りそうな時に、それを諦めるのはおかしいと彼は主張している。
 Dupuisもこの指摘に基本同意している。シャルルロワが陥落しているとの情報は25日夕に既にコーブルクの手元に届いていた。確定情報ではなかったとしても、その可能性を踏まえてなおコーブルクが26日にフランス軍を攻撃する決断をしたことは確かである。だとすれば、連合軍が退却を決めた最大の理由は、彼らが勝てそうにないと判断したためになる。

 後は細かい話をいくつか紹介しておこう。戦場の地形を生かした戦い方や、ルフェーブル師団が敵を十分引き付けるまで射撃を控えていたことなどから、Dupuisはフランス側の方が戦術面で敵に勝っていたのではないかと見ている。アルノーダンによれば、例えば歩兵が敢えて正面が狭い隊列を敷き、少数の兵力しかいないと見せて敵を引き付けたうえで本当の戦力を展開するといった策略も見せていたそうだ。
 一方でフランス軍は退却する連合軍を追撃してその損害を増やすといった対応ができていなかった。このあたりはジュールダン自身も反省していたようで、モンテギュを最前線に近いトラズニーではなく、アトリ師団近くの第2線に置いて使える予備を増やすこと、及び右翼側で分散配置されていたマルソーの部隊を最初からランビュサール周辺の塹壕に配置することが必要だったとしている。それによって右翼はマルソーとルフェーブルの師団に加え、より強力な予備を投入することもでき、この方面の連合軍を叩いて攻勢に出ることができたはずだ。残念ながら司令官は左翼側に気を取られすぎていたが、本当はもっと早くランビュサール方面で指揮を執るべきだった、というのがジュールダンの見解である。
 司令官自身のこの見解がどのくらい妥当なのかは判断しかねる。少なくともマルソーの配置については、ラ=バラクに防衛を兼ねた宿営地を構築していた時点で、あまり現実味のある想定だとは思えない。それでも敵が戦線を広げて進んできたと判明した時点で、予備を集中投入してその戦線を破綻させるという作戦が可能だったのは確かだろう。
 あとDupuisは気球についても色々と書いてはいるが、結論はシンプルに「役に立たなかった」である。このあたりは既にこちらこちらで言及している。
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