カール大公が指揮下第4縦隊は25日夕方、ポアン=デュ=ジュール付近に展開した。ボーリューの第5縦隊はまとまって展開できる場所がなかったため3つに分かれた。ボーリュー自身が率いた部隊はトンリーヌとボテー間に布陣し、バラル村とオニョへ至る道を占拠した。シュマーツィンクが率いる部隊はバラル付近におり、ツォプフが率いた3つ目の部隊はスピーとオニョ(フェラリス地図のフルーリュ参照)の間にいた。
ボーリューは自身が率いる1つ目の部隊でランビュサールへ向かう一方、シュマーツィンクにはフェイ農場を経てボーレ村と近くの森を掃討して1つ目の部隊の前進を助けるよう、またツォプフの部隊にはサンブル沿いに進みつつ主力との連携を維持するよう命じた。さらにナミュールのヴェルシュ大佐には、サンブル河とムーズ河の間を南西に進み、フロレス[フロレフ?]とサン=ジェラールにいるフランス軍を追い払い、タミーヌの橋の奪取を試みて、この方面からフランス軍を脅かすよう命令している。
彼らの攻撃を受けることになっていたマルソーのアルデンヌ軍は、まず前衛部隊がヴレーヌ、ワンフェルゼー、ボーレに布陣していたのは分かる。分からないのは主力がいた「ラ=バラクの宿営地」と、最右翼にあった「メゾン=ルージュ」の2つだ。残念ながらこれはフェラリスの地図を見てもどこにあるかは不明。ただラ=バラクに関しては、場所的に考えて前衛部隊が布陣していた3つの村よりは南西方向にあったこと、コピオー森の北の端にあった堡塁で右側面をカバーしていたとあるので、この森よりは西側にあったのではないかといった点が想定される。
Dupuisによればラ=バラクの宿営地は「ランビュサールの東800メートル」の位置にあったそうだ(p362)。現代の地図でランビュサールからボーレまで4キロ弱の距離があることを踏まえるなら、ラ=バラクの宿営地はランビュサールのすぐ東にあったと思われる。
1848年に描かれたこちらの地図を見るとランビュサール北東にラ=ヴィエイユ=バラクという地名があるので、おそらくこのあたりに宿営地が存在したのだろう。メゾン=ルージュの方はさらにはっきりしないが、最右翼とあるのでヴレーヌ村南方のどこか、サンブル河に近いあたりに存在したと思われる。
連合軍によるアルデンヌ軍への攻撃にもよく分からないところがある。それによるとツォプフがヴレーヌを、シュマーツィンクがボーレを攻撃し、ボーリューの主力はヴレーヌの森を攻撃したとあるのだが、最後のヴレーヌの森はフェラリスの地図でも見当たらない。ヴレーヌ村近辺にある森のことだろうと思われるが、だとしたら最右翼をランビュサールへ向かうはずだったこの部隊が、中央もしくは左翼に位置を変えたことになっており、なぜそのような変更が起きたのかが分からない。
いずれにせよ連合軍の攻撃を受けたマルソーの部隊はコピオーの森へと後退し、ヴレーヌとヴレーヌの森で抵抗を続けた。ボーリューはツォプフに対してフランス軍のサンブル渡河を邪魔するよう命じ、まとまった兵力をヴレーヌとコピオー森の間に配置して森を攻撃させた。10時半に連合軍は、メゾン=ルージュに接した突出部を奪うことに成功。アルデンヌ軍はサンブル方面へと壊走を始め、ボーリューはラ=バラクへ向けて容易に行軍できるようになった。
ラ=バラクの近くにいたマルソーは部隊の再編を図ろうとしたが失敗し、兵はタミーヌ及びテルニェーでサンブルを渡って右岸へと逃げ出した。右側面の部隊が崩壊したのを見たルフェーブル師団のスールトは、擲弾兵3個大隊と騎兵1個連隊を使ってランビュサール村からその南東にあるランビュサールの森まで戦線を敷き直し、マルソーの部隊で残っていた大砲12門と合わせてこの方面に空いた穴を塞いだ。
アルデンヌ軍が壊走したためボーリューは簡単にラ=バラクの宿営地を奪取できた。彼はそこで約20門の大砲を奪ったが、運ぶ馬匹がなかったためそのほとんどを放棄したという。彼によればフランス軍はランビュサール村の背後にある高地に兵力を集めて連合軍に抵抗した。自分たちの左側面を安全にするため、ボーリューは部隊をランビュサール南東の峡谷に配置し、さらに一部をサンブル方面に前進させてモワヌレとテルニェーを占拠した。さらに彼はランビュサール攻撃の準備を始めた。
一方、カール大公の第4縦隊は6時頃、マルソーの前衛部隊がボーレとヴレーヌを放棄し始めたあたりからフルーリュスに対する攻撃を始めた。ルフェーブルはマルソーのアルデンヌ軍がサンブル右岸に逃げ出した11時頃までこの村にとどまって抵抗を続けたが、右翼ががら空きになったため、フルーリュスを放棄してカンピネールとランビュサールまで後退するよう命じた。カール大公は11時頃にフルーリュスを占領。カンピネールへと前進してきた時に、ボーリューがラ=バラクの宿営地を奪った。以後、ボーリューがこの2個縦隊の指揮を執り、この方面での攻撃を担うことになった。
しかしこの方面での攻撃も、第3縦隊が直面したのと同じ困難に見舞われた。カンピネール付近にフランス軍が構築した塹壕線の正面は緩やかな傾斜のおよそ1キロに及ぶ斜堤を形成しており、身を隠すような場所がなかった。ランビュサールからカンピネールまでの部分も同様に約500メートルの斜堤となっており、移動している間はフランス軍の砲火に晒されるうえ、騎兵を含むフランス軍の反撃も受けやすかった。結果、この地域における戦闘は午後1時から6時まで、長々と続くことになった。
ボーリューは部隊を3つに分けた。カール大公が率いる右翼はヴュー=カンピネールを攻撃。左翼はランビュサール村を攻撃し、中央を進む部隊はランビュサールの西にある谷あいを進んだ。右翼と中央がカンピネール高地からの砲撃で足止めされたのに対し、ランビュサールへの進軍には地形を利用することができたため、オーストリア軍は村に突入することができた。だがフランス軍は家に火を放って連合軍の進路を塞いだ。
村の奪取は難しいうえに、そこを奪ってもその後のカンピネールへの攻撃が困難だと判断したボーリューは、ランビュサール正面に限られた兵力のみを残し、他の部隊を第4縦隊に合流させた。彼は歩兵に3つの縦隊を組ませ、間に砲兵を配置し、ドラムを鳴らして前進した。ルフェーブルは敵を引き付けたうえで射撃を行い、これの撃退を試みた。ジュールダンによると敵は3回にわたってピストルの射程まで接近してきたが3度とも撃退され、退却する敵に対しては騎兵が襲い掛かった。スールトによると兵たちは「きょうだけは退却するな」と叫びながら戦った。この間、ランビュサール正面に残された連合軍も村に足がかりを築くことができなかった。
午後5時頃、4度目の攻撃に失敗した敵の隊列が乱れたのに乗じ、ルフェーブルは予備を前進させた。ランビュサールからサンブルへと延びていた戦線は、村の右側から連合軍の側面へと襲い掛かった。戦場へと呼び戻されたマルソーの部隊もこの最後の移動に加わった。フランス軍は連合軍が占拠していたランビュサール村へと突撃した。連合軍の騎兵による反撃を撃退したこれらの部隊は、あまり大きな損害を被らなかったとルフェーブルは報告している。
Dupuisはこの損害の少なさについて、おそらくボーリューが既に後退命令を受けていたためではないかと指摘している。コーブルク公からボーリューに対し、ジャンブルーへ後退せよとの命令が出たのは午後4時から5時の間。帝国軍は、ツォプフの部隊がボシエール(ボテーの東方)で、ボーリューの部隊がグラン=マニル(ジャンブルー南西)で、そしてカール大公の部隊がマルベで夜を過ごした。フランス軍は彼らを追撃できる状態にはなく、この退却は大きな損害なしに実行された。
ルフェーブルもスールトも、戦闘が終わった段階でフランス軍が疲れ切っていたと述べている。スールトによれば士官たちと兵たちは「去り行く敵に黄金の橋を!」(敵に退路を残せという意味)と叫んでいたそうだ。彼はフランス側の損害について5000人ほどとしている。連合軍の損害は、帝国兵が1586人と報告されている。全体の損失は5000人ほどと見られているが、その中には2800人のシャルルロワ守備隊も含まれており、オランダ軍の損害は700人ほどという計算になる。
以上で各縦隊ごとに見た戦闘経緯と地図での確認は終了。なぜかマルソーが展開していた戦場についてはフェラリスの地図でも十分に把握することができず、アルデンヌ軍の戦闘と壊走がどのような経緯をたどったかについての詳細は結局のところ不明だ。古地図を使えば事態を把握しやすくなるのは間違いないが、残念ながら古地図といえども決して万能ではないことが分かる。
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