フルーリュス 4

 DupuisのLes opérations militaires sur la Sambre en 1794を基にしたフルーリュスの戦い続き。次はクォスダノヴィッチが率いた連合軍第2縦隊と、フランス軍のモルロ師団の戦闘(p344-345)について見てみる。引き続きフェラリスの地図を利用しよう。
 ニヴェルを25日夕刻に出発した第2縦隊はキャトル=ブラを経由してフラーヌ村の北方で夜を過ごした。フラーヌ村自体はモルロの分遣隊が占拠していたという。このうちキャトル=ブラはフェラリス地図のスヌッフで見るとトロワ=ブラという名前で記されているほか、1815年戦役で戦場となったボスの森といった地名もきちんと記されている。一般にはこちらの戦いの方が圧倒的に有名だし、地図も見慣れている人が多そうだ。
 26日午前4時、簡単にフラーヌを占拠したクォスダノヴィッチは、フラーヌとメレの中間にあるグラン=シャン農場を攻撃する準備を始めた。だがこの拠点は3時間にわたって連合軍を足止めすることに成功し、その間にモルロは部隊を平野部に展開するとともに連合軍の右側面を脅かすべくテュムオン(メレの西方)から送り出した。
 しかし7時頃、モルロの右側で戦闘していたシャンピオネ師団のグルニエ旅団がシャサール農場とサン=ベルナール農場を放棄し、サン=フィアクルへと後退した。これらの農場の場所はフェラリス地図のジャンブルーを開き、メレの北東を探せばシャサールと、ずっと小さいサン=ベルナールが、またメレの南東にサン=フィアクルが見つかる。相変わらずマニアックな地名が容赦なく出てくる格好だが、シャンピオネがモルロの右側面のどのあたりで戦っていたかが分かりやすいのは事実だ。
 同時に正面にいるクォスダノヴィッチもモルロ師団への攻撃を強化し、ブリュヌオー(テュムオン北方にある小さな緑地)を経由して擲弾兵2個大隊、歩兵4個中隊、12ポンド砲3門、6ポンド砲4門をテュムオンに送り込んだ。モルロ師団はポン=タ=ミニュルーの小川(メレの南からポン=タ=ミニュルーを経てテュムオンまで流れている川)の左岸へと後退し、クォスダノヴィッチはメレとポン=タ=ミニュルーを占拠した。
 以後、両軍は砲撃戦に移行する。フランス軍は帝国軍右翼を牽制するためにポン=タ=ミニュルーで小川を渡ろうとしたが、この砲撃のために実行できず、午後3時にはジュールダンからの後退命令をモルロが受け取った。フランス軍はゴスリーまで下がり、クォスダノヴィッチはピエトン(テュムオンの間違いらしい)で全軍を渡河させるべく舟橋を前進させ、フランス軍の左側面を攻撃しようと準備を進めていたが、その時にコーブルクからの退却命令が届いたという。
 結局、第2縦隊はポン=タ=ミニュルーの小川を越えることはなかった。Dupuisは、彼らと第1縦隊(ジュドンザールやモンコーの森付近まで前進していた)との間に大きな隙間ができており、両者の連絡が確立していなかったことを指摘している。全体としてクォスダノヴィッチの縦隊はフランス軍を相手にあまり進むことができずに終わった格好だ。

 次にカウニッツの第3縦隊とシャンピオネ師団の戦闘(p344-357)だ。カウニッツはまず25日午後に部隊をフォンテーヌ=ラ=ブリュイエールまで進めたとある。会戦前の命令ではアンブル=ド=ラ=ブリュイエールだったのが、なぜ微妙に違う名前になっているのかは不明。ただマルベ南方の高地からフランス軍がこの動きを目撃していたとあるので、似たような場所にあったのではないかと推測できる。シャンピオネは連合軍がソンブルフ方面に向かっていた記しており、翌日の攻撃に備えて準備をした。
 戦闘が始まったのは26日午前6時。カウニッツは部隊を前衛、主力、予備に分けて南方へと前進を始めたが、シャサール農場付近でフランス軍と遭遇した。ここで戦ったシャンピオネ師団のグルニエ旅団はやがて後退を強いられ、サン=フィアクルの北方に構築された突角堡まで下がった。増援を受け取った彼らはそこで午前9時半頃まで抵抗を続けたが、シャンピオネの右側にいたルフェーブル師団がフルーリュスを放棄してカンピネールまで後退したのに伴い、右側面ががら空きになったサン=フィアクルからの撤退も避けられなくなった。
 シャンピオネはアッピニーの高地に築いた塹壕に歩兵を配置。その両翼は18門の大砲を要する堡塁によって守られていた。だが彼らと右翼のルフェーブルをつなぐ中間地点のワニェー(ワンジュニー)には1個大隊しか配置されていなかった。ジュールダンはアトリ師団から引き抜いた1個半旅団をこの方面に送り込み、他の増援も使って戦線を支えた。
 ただし戦場のこの付近は防御側にとって有利であったこともDupuisは指摘している。前に紹介したグロ=ビュイソンからアッピニーとワニェーの間にある高地を見ると、シャンピオネ師団が構築した堡塁までゆったりとした上り斜面が続いており、まさに自然の斜堤を形成していたという。およそ1キロ四方に相当するこの地域は一面の畑であり、身を隠すような垣根、樹木、柵などは存在しなかった。またフランス軍が布陣した稜線は、攻撃側が大砲を配置できる高地よりも少なくとも10メートルは高い位置にあったという。
 カウニッツにとって有利な地形は、メレからアッピニーを通ってランザールにまで通じている小さな峡谷部であり、この谷を通ればフランス軍が敷いた防衛線の北西端にまで到達できた。カウニッツはこのルートに歩兵2個大隊と200人の志願者を送り込むと同時に、主力はおそらく牽制のためフランス軍戦線に正面から挑もうとした。11時頃、シャンピオネは左翼でクレベールの部隊がマルシエンヌ=オー=ポンまで後退したこと、右翼でマルソーの部隊が窮地に陥ったことを知った。正午にはカール大公の成功を知らされたカウニッツの攻撃が激化した。
 シャンピオネはジュールダンに増援を要請し、後者はデュボワ将軍の騎兵を送ってきた。彼はこの騎兵を敵の左側面に、ルグラン将軍を右側面に送り込み、正面から砲撃を行って連合軍を撃退しようと試みた。午後2時頃、デュボワは敵騎兵に向けて突撃したものの、逆に敵に囲まれて危うく捕虜になりかけた。歩兵の攻撃も押し戻され、3時頃には谷を経由して進出してきた連合軍がアッピニー村に突入した。彼らの右側面での戦闘はカンピネール農場付近まで移動し、シャンピオネからは砲声がどんどん背後に回り込んでいるように聞こえた。
 シャンピオネは何とか状況を知ろうとルフェーブルにいくつもの伝令を送ったが、唯一手に入った情報は前衛部隊(ルフェーブル師団)がシャトレ(サンブル右岸)に退却しているという間違った情報だけだった。だがその時、運悪くジュールダンと派遣議員たちがシャンピオネの下に現れ、この情報を聞いて退却の準備をするよう命令を下した。時刻はおそらく午後3時半頃だったと思われる。
 シャンピオネ師団の左翼を担っていたルグラン旅団はアッピニーの境界周辺にある墓地で足を止め、この地点で峡谷を経由して侵入してきた連合軍と対峙した。堡塁にあった大砲は後方へと下げられ、ルグランもランザール方面への後退を始めた時、突然今度は攻勢に出るようにとの命令が届いた。ようやくルフェーブル師団の情報が届き、彼らが陣地を保持してランビュサール村を確保していることが判明したためで、ジュールダンはすぐ回れ右をして銃剣突撃を実施するよう指示を出した。
 シャンピオネ師団の2個旅団(ルグランとグルニエ)、及びデュボワの騎兵部隊は部隊をかき集めて反撃に出た。歩兵はアッピニーからサン=フィアクル、サン=ベルナールを奪回し、シャンピオネはジュールダンから送られてきた増援3個大隊とともにワニェー村を奪って騎兵の突撃を支援した。騎兵は彼らの右側面で突撃を敢行した。あちこちから「共和国万歳」の叫びや、サ=イラの歌声が聞こえてきたという。午後4時から始まった反撃は1時間もしないうちに勝利につながった。
 とはいえ、この反撃に関する記録には差異も多いらしい。ジュールダンによれば逆襲を可能にしたのは彼がアトリ師団から差し向けた1個半旅団のおかげであり、この部隊が逆襲に転じたシャンピオネ師団を支援してカウニッツを押し戻すことに貢献したという。一連の戦闘においてジュールダンはまず午前10時に1個半旅団を、正午にデュボワの騎兵旅団を、さらに午後3時に1個半旅団を増援に送り込んでおり、これらの部隊がシャンピオネ師団と協力して戦ったことは確かなようだ。ただしデュボワの騎兵による夕方の突撃は混乱した隊形のまま実行されたようで、また予備の支援もなかったため最終的には連合軍騎兵の反撃を受けて引き下がった。
 シャンピオネ師団の反撃は劇的な効果を呼び起こしたとフランス側は見ていたようだが、実際にはほぼ同じタイミングでコーブルクが連合軍の退却を命じていたことの影響が大きかった。フランス騎兵は疲労しており、逆にオーストリア騎兵は味方の退却を助けるために非常に活躍し、時にはフランス歩兵に方陣を組むことを強いたほどだったという。5時頃にはカウニッツは戦場から撤収し、この方面の戦闘はフランス軍の勝利で終わった。シャンピオネによると自軍の被害は戦死180人、負傷650人に達した。
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