だがこれも入り口に過ぎない。そもそもここまで紹介したのは戦い前に連合軍司令部が出した命令に書かれていた場所にすぎず、実際の会戦において各部隊がどこでどのような行動をしたかについて述べたものではないからだ。このあたりについて調べるため、以下はDupuisの本に従い、連合軍側の各縦隊がどこに進み、それに対してフランス軍がどのように対応したかを見るとしよう。もちろん、引き続きフェラリスの地図が同伴者となる。
まずオラニエ公の第1縦隊の行動について(Dupuis, p335-344)。彼らの部隊はシャペル=エルレモン(フェラリス地図のシャルルロワ北西部)の背後にある宿営地を25日午後に出発した。彼らは翌日、3つの部隊に分かれてフランス軍を攻撃する予定であり、各部隊は以下のように移動することになっていた。
ヴァルデック公指揮下の第1部隊(歩兵14個大隊と騎兵18個大隊)はトラズニー=フォルシー戦線へと進み、そこからマルシエンヌ=オー=ポンへ移動する。オラニエ公の弟であるフレデリック公が率いる第2部隊(歩兵7個大隊と騎兵12個大隊)はアンデルリュの磔刑像、フォンテーヌ=レヴック、エスピネット、リュスを経て、マルシエンヌ=オー=ポン経由の退路を断つ。リーシュ将軍が率いる第3部隊(歩兵3個大隊と騎兵2個大隊)は先の2つの部隊をつなぎ、必要に応じてどちらかを支援する。
さて、正直ここまでの記述で既に曖昧な部分が出ている。この文章とフェラリスの地図を見る限り、第1部隊が左翼、第2部隊が右翼を形成し、第3部隊はその中間を進むと想定できるのだが、特に第1部隊がどこを通るつもりなのかが一向に読み取れない。第2部隊についてはまだアンデルリュ→フォンテーヌ=レヴック→エスピネット→リュス、というコースが想定できるものの、第1部隊についてはフォルシーとマルシエンヌ=オー=ポンとの間をつなぐ点が全く記載されていないのが理由だ。いくらフェラリスの地図があっても、地名が出てこなければ調べようがない。
続いて第1及び第2部隊の移動についての記述が出てくる。まずヴァルデック率いる第1部隊は2つに分かれてモン=タ=グイ農場とラ=グロリエットの森の間を抜けた。前者はシャペル=エルレモンの北西にあるグイの村のすぐ西にある地名で、後者はピエトンのすぐ北側、マルプラケという地名のすぐ上にキャバレー=ラ=グロリエットという名前が出てくる。これらの位置は
他の地図を見ても間違いないと思われる。
その後、第1部隊はフランス側のモンテギュ師団とトラズニーを巡る争いを行っている。ここでの戦闘についての詳しい経緯は不明のようだが、最終的にフランス軍はトラズニーを捨て、モンコーの森を経てマルシエンヌ=オー=ポンまで後退したそうだ。連合軍はこれを追撃し、モンコーの森を一掃した後でジュドンザール村(マルシエンヌ=オー=ポンとクールセルの中間付近にある小さな集落)まで進出し、マルシエンヌ=オー=ポンを激しく砲撃した。オラニエ公の縦隊の左翼を形成した部隊がこちらに進んだということは、彼らが西から東へではなく、北西から南東へ向けて進軍したことを示している。
一方フレデリック公の第2部隊は午前2時にシャペル=エルレモンを発し、アンデルリュの磔刑像(アンデルリュ東方)に到着した。彼らは簡単にフォンテーヌ=レヴックのフランス軍を排除し、エスピネット高地の正面でフランス軍と対峙した。連合軍はこの戦闘でウェスプの城を奪い、散兵をランドリーの森まで突入させた。第2部隊は第1部隊の右翼を、彼らと平行に北西から南東へと進んだことが分かるほか、フェラリスの地図でテューアンを開けば、彼らがランドリー周辺のサンブル河近くまで迫った様子が窺える。
だがこの段階(午前9時から10時の間)で連合軍の進軍は止まらざるを得なかった。南東へ向いている彼らの左側面、方角で言うなら東から北東にかけての方面から、クレベールの逆襲が行われたためだ。
トラズニー方面での戦闘を知った彼はデュエーム師団から歩兵3個大隊、12ポンド砲兵1門、曲射砲2門などをクールセル(トラズニーの東方にある村)へと移動させた。だがこの部隊はクールセルから出撃したところで退却中のモンテギュ師団に遭遇し、単独で戦うのが困難だったため一旦退却した。フランス軍は既に
ルー村の橋、
サール修道院、そしてゴスリー=クールセル街道上の橋という、ピエトン川に沿った3つの拠点を確保済みであり、クレベールはこの防衛線を左翼マルシエンヌ=オー=ポンまで延伸するようベルナドットに銘じた。
このようにして自分たちの正面の守りを固めたうえで、クレベールは反撃を決断した。デュエームがクールセルからトラズニー方面を守る一方、自身は歩兵3個大隊、騎兵2個大隊などを率いてベイモン(ルー南東、ジュドンザール東方の村)を経てモンコーの森を攻撃することになった。クレベールが目的地に達し、ヴァルデックの部隊を砲撃し始めたのは正午頃だったという。午後1時にかけて両軍の戦闘はマルシエンヌからクールセルまでの戦線に広がり、クレベールは砲撃の効果を見て前進を命じた。午後2時頃、クレベール、ベルナドット、そしてデュエームの率いる各部隊がピエトン川を越えてモンコー(マルシエンヌの北西にある村)とクールセルへ進撃を始めた。
クレベールの報告によると敵騎兵は磔刑像の丘(アンデルリュのものとは違うと思われるが、場所は不明)を既に占拠していたという。だがクレベールが伝令を飛ばして調べさせたところ、マルシエンヌの橋はフランス軍が保持し続けていた。フランス軍はベルナドットが右翼、クレベールが左翼の部隊を率いて平野へと前進し、連合軍が拠っていたモンコーの森へと進んだ(フェラリスの地図に従うならモンコー村の西方にある側の森だろう)。クレベールはこの敵を追い払い、マルシエンヌに迫っていた危険を排除することに成功した。
ベルナドットが戦ったのはルー村の近辺だった。連合軍はクールセルの森(ルーの西側にある森)の入り口とルーの集落に砲列を敷いていた。ベルナドットはこの敵を正面から牽制する一方、その左側面に4個中隊を送り込む計画を立てたが、その時、クールセルからウィルブルー(ルーの北方にある村)への街道上を進むオランダ軍を見て、4個中隊による攻撃を取りやめて彼らに村の入り口を守らせた。この「村」がどの村であるかについては書かれていないが、ウィルブルー村の可能性はある。ベルナドットはさらなる増援が到着するまで時間を稼ぎ、それからようやく敵左翼への攻撃を敢行。連合軍を森から追い払った。連合軍は100人ほどの損害を出した後で退却。フランス軍はグイ村のすぐ近くまで彼らを追撃したという。
デュエームは回想録で、ピエトンを「同名の村のところで渡った」と書いているようだが、ピエトンという名前の村はフォルシーより西側にあり、デュエームが展開していた位置からはいくら何でも遠すぎる。彼らはその後、連合軍をトラズニーの向こうまで押し戻し、そこでクレベールがマルシエンヌから連れ戻った兵と合流したのだそうだ。回想録は当てにならないという事例の一つだろう。
ヴァルデックの部隊が退却を始めたのは、実際には午後5時頃だったそうで、クレベールらの反撃がすぐに効果を表したかどうかは明白ではない。またオラニエ公は退却した理由として、連合軍の他の縦隊が後退したことを理由に挙げている。彼はクレベールの反撃が始まったところで偵察をダンプルミー(シャルルロワの西にある村)に送り出し、シャルルロワがどうなっているか確認しようとした。彼はこの時点では敵が退却するのではと思っていたようだが、午後2時頃から状況が変わっていき、5時にはフォルシーへの退却を命じた。
右翼を構成していたフレデリック公の部隊はアルヌとロッベのサンブル渡河点を遮断しようとしたが、援護に来たフランス軍のポンセ旅団がレルヌへ進み(フェラリス地図のテューアン参照)、さらにアンデルリュの高地を奪回したため、退却を強いられた。彼は午後3時頃にはアンデルリュの磔刑像がある高地に布陣。さらに5時には後退を行い、戦線から遠ざかった。連合軍の攻撃はフランス側の反撃により、目的を達成することなく終わったことが分かる。
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