フルーリュス 2

 承前。フルーリュスの戦いにおける連合軍側の行動方針について、DupuisのLes opérations militaires sur la Sambre en 1794に出てくる地名をフェラリスの古地図を使いながら追いかける。次は連合軍の第3縦隊だ。
 カウニッツの第3縦隊に関連して出てくる地名は、アルブル=ド=ラ=ブリュイエール、シャサール農場、フルーリュス、アッピニー、ワニェー(Wagnée)、そしてカンピネール農場だ。簡単に見つかるのはフルーリュス、アッピニー、今ではワンジュニー(Wangenies)と呼ばれているワニェーだろう。ちなみにフェラリスの地図だと、1815年のリニ―の戦いで戦場になった少し北方にあるワニュレー(Wagnelée)もワニェーと書かれているので、非常に紛らわしい。
 フェラリスの地図のうちジャンブルーを開くと、ヴィレ=ペリュワンとマルベの間にアンブル=ド=ラ=ブリュイエールという小さな文字の書かれた場所が見つかる。次にずっと南方、ヴィレ=ペリュワンの南東、メレの北東に大きな建物を含む農場があり、シャサールという文字も読むことができる。最後のカンピネール農場はフルーリュを開き、フルーリュスから南西へ通じる道をたどっていけば、ランビュサール村の西方にカンピネールと書かれた小さな農場が目に入る。
 次はカール大公が率いた第4縦隊だ。ただしこちらについては僅かな地名しか出てこない。午前2時にポアン=デュ=ジュールを発し、フルーリュスへ向かい、それからカンピネール農場へ行く、というだけだ。この3ヶ所のうち、フルーリュスとカンピネールは既に第3縦隊のところでも言及している。
 残るはポアン=デュ=ジュールだが、こちらについては以前ワーテルロー戦役におけるグルーシーの行動を分析した際に、何度もこの地名に触れている。フェラリス地図のジャンブルーを開けば、ナミュール街道と、リニーからジャンブルーへ向かう街道との交差点に、まさにポアン=デュ=ジュールという文字が見えるだろう。交通の要衝であるこの地点は1815年にも軍隊の大規模な移動が行われたわけだ。
 興味深いのは、ポアン=デュ=ジュールの上にCabaret、キャバレーの文字が見えることだ。現代のキャバレーと言えば「ザ・夜の街」という感じの店を指すのが通例だが、元々は部屋を意味する言葉に由来しているそうで、古いフランス語だと地下室への入り口とか宿屋といった意味もあったそうだ。実はフェラリスの地図を見るとカンピネール農場にもキャバレーの文字が付いている。もしかしたらこれらの農家は宿屋のような機能を果たしていたのかもしれない。
 最後に第5縦隊。こちらを指揮していたボーリューについては、モンテノッテ戦役ロディ戦役での活躍(?)を何度か記している。1796年の彼は色々と残念だったが、1794年の彼は正面にいたマルソーの部隊を蹴散らし、フランス軍をある程度追い詰める活躍を見せていた。
 彼らに関連してDupuisが書いている地名を見ると、まず26日にグロ=ビュイソンに向かい、そこからフェイ農場とフルーリュスの間を通り抜け、ランビュサールと敵右翼を攻撃すると書かれている。またこの縦隊のうち2個大隊はワンフェルゼーとボーレの集落、及びその集落の北方にある森へと移動する。見ての通り、フルーリュス以外は初出の地名だ。
 グロ=ビュイソンを普通にググるとナミュール南西(サンブル河右岸)の地名が引っかかってくるが、もちろんここで出てくるグロ=ビュイソンは違う。フェラリス地図のジャンブルーを開き、リニ―から南へ視線を進めると、地図の端にこのグロ=ビュイソンという地名が出てくる。ちなみにフルーリュを開いてグロ=ビュイソンの南方にあたる付近を探すと、今度はプティ=ビュイソンという名前も姿を見せる。フェイ農場はそのすぐ右横、ワンフェルゼーの北側にある。ランビュサールはフルーリュスの南方にある村だ。
 2個大隊の移動先として書かれているボーレの集落はワンフェルゼーとランビュサールの中間よりワンフェルゼー寄りにある。その北側にある森についてだが、正直森と言えるほどのサイズかどうか疑わしいものだが、ボーレから見てフルーリュス側にまとまった木立が存在するようだ。地図を見れば、この2個大隊が第5縦隊の左側面をカバーするように動く予定になっていることが分かる。

 以上、フェラリスの地図を使った連合軍の動きに関する解説だ。あとはこの地図とDupuisの文章があれば、フルーリュスにおける連合軍の最初の動きはきちんと把握できる……のであれば話は簡単なのだが、そうは問屋が卸さない。Dupuisの本には元ネタがあるのだが、彼はその元ネタを丸写ししているわけではないため、一部の情報が欠落しているのだ。
 その元ネタとはWitzlebenの書いたPrinz Friedrich Josias von Coburg-Saalfeld, herzog zu Sachsen, Dritter Theil。同書のp293以降に連合軍側の移動に関する紹介が色々と書かれているのだが、中でも重要なのはオラニエ公が率いる第1縦隊の部隊構成に関する記述だろう。
 Dupuisの本を見ると、第1縦隊は単純に「歩兵24個大隊、騎兵32個大隊、12ポンド砲22門、7ポンド曲射砲10門」(p328)から成っていたと書かれている。一方、Witzlebenの本を見ると、実は歩兵大隊は「皇帝軍大隊8個、オランダ軍大隊16個」、騎兵は「皇帝軍大隊14個、オランダ軍大隊18個」(p293)と記されている。皇帝軍というのはもちろんオーストリア軍のことであり、つまりオラニエ公の第1縦隊はオーストリア軍とオランダ軍の混成部隊だったことが分かる。
 歩兵と騎兵だけでなく、砲兵も同様に両軍の混成で編成されていた。12ポンド砲は「皇帝軍10門、オランダ軍12門」で、7ポンド曲射砲は「皇帝軍6門、オランダ軍4門」だ。他の縦隊にオランダ軍が所属していたという記録はないため、彼らはオラニエ公の部隊にのみ所属していたのだろう。それも含めてオラニエ公の軍勢に全戦力のうち歩兵大隊の41%、騎兵大隊の32%、そして大砲の32%が属している計算となり、バランスを欠くほどこの縦隊の戦力が大きいことが分かる。事実上の王家に属する世継ぎが指揮していた部隊だけに、オーストリア側が気を遣ったのではないかと思いたくなる数字だ。
 もちろんそうした外交儀礼的な面だけで部隊の配属が決まったわけではないだろう。実態としてオラニエ公は独立した作戦行動を必要とする位置に展開しており、他の部隊との連携があまり期待できない状態にあったようだ。また彼らの大きな役割としてサンブル河沿いに進んでフランス軍の連絡線を絶つというものがあり、それを成し遂げるためにその部隊がどうしても連合軍の他の縦隊から離れるように動く必要があったのかもしれない。少なくとも第2~第5縦隊までに与えられた指示に見られる横の連携は第1縦隊にはあまり見られず、だからこそ自力で戦えるだけの戦力を整えることになったのだろう。
 もう一つ気になるのが、Witzlebenの文章に出てくる大砲の種類が極めて少ないこと。これらの記述を信じるのなら、オーストリア=オランダ連合軍がこの戦いで使用した大砲は、12ポンド砲と、7ポンド及び10ポンド曲射砲の3種類しかなかったことになる。ワーテルローの戦いでフランス軍が使用した大砲の種類がたった4つにまで絞り込まれていたという話は前にもしたが、もしこの記録が事実なら18世紀後半の時点で大砲の標準化はかなり極限まで進んでいた、のかもしれない。

 フルーリュスの戦いはこちらこちらで紹介したように、フランス革命戦争の中でも参戦人数がトップクラスに多い大規模な会戦だった。カール大公やルフェーブルといった、後に有名になる将軍たちが参加している点でも興味深い戦いと言える。もちろん今ではとてもマイナーな会戦の1つでしかないのだが。
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