フルーリュス 1

 前にナポレオニック関連のエントリーをまとめなおした際にあまり触れていないことに気づいたから、というわけではないのだが、1794年のフルーリュスの戦いについていくつか調べてみよう。利用できそうな文献が、DupuisのLes opérations militaires sur la Sambre en 1794。題名の通り、1794年戦役におけるサンブル河畔の戦役に焦点を当てた本だ。
 といってもこの本の中でフルーリュスの戦いについて触れているのは最終章のみ。そもそもフルーリュスに至る途中、フランス軍は何度もサンブル河を渡ってシャルルロワ攻囲を試み、何度も連合軍に撃退されている。しつこく繰り返した末にようやく6月下旬になってシャルルロワを降伏させるのに成功し、フルーリュスの戦いで勝利を収めることもできた格好だ。
 サンブルを渡河した部隊は、編成上は様々な軍の寄せ集めだった。6月26日に戦った革命軍の内実を見ると、モーゼル方面軍が4個師団の4万2000人、クレベール指揮下の2個師団(北方軍)1万8000人、アルデンヌ方面軍の2個師団1万1500人などで構成されていることが分かる(p323)。指揮を執っていたのはモーゼル方面軍司令官のジュールダンだったが、彼らだけでなくその左右の軍からも応援をかき集めていた格好だ。
 フランス軍はシャルルロワを攻囲しつつ、救援に来るであろう連合軍を迎え撃つため、サンブル河左岸に半円形に部隊を配置した。最左翼にいたのがクレベールの率いた部隊で、その右にはモルロ師団、シャンピオネ師団、ルフェーブル師団、そしてマルソーの部隊と並んでいた。また予備としてアトリ師団とデュボワの騎兵がいた。

 一方、これに対抗したコーブルク公の連合軍は、オーストリア軍とオランダ軍で構成されていた。彼らは全部で5つの縦隊に分かれ、フランス軍のほぼ全戦線に対して攻撃を行った。味方部隊が広範囲に散らばりながら、同じく広い範囲に展開しているフランス軍と交戦する格好となったため、戦力の有効的な活用ができなかったとされている。そもそもこの戦いに参加した兵力はフランス軍の方が多かった(BodartのMilitär-historisches Kriegs-Lexikon (1618-1905), p293によると、フランス軍8万1000人に対し連合軍は4万6000人)そうで、普通にやれば勝つのは難しかったのだろう。
 この5つの縦隊がどのように編成され、どう行動したかについてはDupuisのp328-329に書かれている。ただし、単純にこの部分を読んでもおそらく困惑するだろう。何しろかなりローカル性の高い地名が何の説明もなく次々と出てくるため、各部隊が実際にどこをどう動こうとしていたのか、読んでもすぐには分からない可能性があるのだ。少なくともgoogleマップOpenStreetMapといった現状で利用しやすい地図だけでは、細かい地名を追いきれない。
 ではどうすればいいのか。以前にも紹介したフェラリスの作成したベルギー古地図を使うのが望ましい。バウツェンの説明でも昔の地図を紹介したが、現在の地図に比べて正確性では劣るかもしれないが当事者の意図はつかみやすい。フェラリスの地図を使う場合、こちらのサイトから画像を探すのがいいだろう。複数の地図を開いたり閉じたりする作業が必要になるだろうが、場所がつかめずどこで何が起きているのか意味不明という状態よりはマシだ。他にもこちらにある地図はそれなりに役立つだろう。
 まずはオラニエ公(ここで言うオラニエ公が誰かについてはこちら参照)が率いた第1縦隊だ。連合軍の最右翼を形成する彼の部隊は、Dupuisによると「25日夕にシャペル=エルレモンに集まり、26日午前2時にクールセルとフォルシーを攻撃し、敵をモンソーの森から追い払い、エスピネットのフランス軍宿営地を奪い、リュスとマルシエンヌ=オー=ポンの下流でランドリーとの連絡線遮断を試みる」とある(p328)。
 googleマップを見ればシャペル=レ=エルレモンがシャルルロワの北西にあるのはすぐ分かるし、クールセルがその東方に、フォルシー=ラ=マルシュがフォンテーヌ=レヴックの北方にあるのも見つけられる。サンブル河沿いにあるマルシエンヌ=オー=ポンとランドリーを発見するのも簡単だろう。だがリュスとエスピネット、及び「モンソーの森」を探し出そうとしても、全然見つからずに苦労するのではなかろうか。
 そこでフェラリスの地図だ。まずはシャルルロワの地図を見つけ、これを拡大してみよう。マルシエンヌ=オー=ポンの西側、サンブル河を挟んだ対岸にちと読みにくいが「RUS」という文字が発見できる。おそらくこの村がリュスであろう。さらにマルシエンヌ=オー=ポンの北西に小さな「モンコー」という村があり、その西方と東方に、2つに分断されている「B DU MONCAUX」と書かれた森が見つかる。モンソーではなくモンコーになっている理由は分からないが、クレベールの報告書(Dupuis, p579)にbois de Moncauxという文字があるのを見るに、おそらくこれが「モンソーの森」だと思われる。
 残っているエスピネットは、フェラリスの地図のうちテューアンを開いてみる必要がある。地図の上の方にランドリーという地名があるが、そこからさらに北方へ向かい地図の端近くを見ると、Espinetteと書かれた農場が見つかる。こちらが第1縦隊の目的地とされていたエスピネットでほぼ間違いない。どうやら第1縦隊はサンブル河近くまで進むことでフランス軍左翼を脅かす役目が与えられていたのだろうと推測できる。
 続く第2縦隊を指揮するのはクォスダノヴィッチだ。彼らは25日にニヴェルを出発してグラン=シャン農場に向かい、そこで夜を過ごす。26日には夜明けとともに戦闘を始め、第3縦隊がロンビューの森に到着するや否や、ポン=タ=ミニュルー、メレ及びロンビューの森を経てゴスリーに向かうことになっていた。
 ニヴェルやゴスリーといった地名は、ワーテルロー戦役でもしばしば登場する。たとえばニヴェルは英連合軍が集結する予定地として、4月末の「秘密覚書」の時点で既に名前が出てきている。フランス軍が何度も似たような場所で戦っていた証明の一つと言えるが、これらの場所を探し出すのはgoogleマップでも全然難しくない。またメレやポン=タ=ミニュルー(googleマップではなぜかPont-a-Mignetouxとなっている)も割と簡単に見つけられる。大きな町は当然として、村レベルの集落までなら現代の地図にその地名が残っているのは珍しくないのだろう。
 しかし農場や森の名前はそうはいかない。農場は時間とともに姿を消すなり名前が変わっている可能性があり、森もどんどん切り開かれてしまっていることが考えられるためだ。というわけでまたもフェラリスの地図を使うことになるのだが、まずスヌッフの地図を見ればグラン=シャン農場はフラーヌとメレの中間あたりに見つかるだろう。さらにシャルルロワの地図を見ると、ゴスリーのすぐ東に小さなロンビューの森を見つけることができる。今であればシャルルロワ空港の近くだ。

 長くなったので以下次回。
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