グレゴリー・クラークの
For Whom the Bell Curve Tolls に関する続き。英国のデータを使った分析だと、人々の社会的地位や財産といったものは、子供に対する投資や文化資本よりも、遺伝を通じて継承されるモデルの方が適合しているという話を紹介した。それを裏付けるのは、親子や兄弟、さらにもっと遠い親戚と比べた時の社会的結果の相関である。
社会―遺伝的モデルからは、また性別における対称性も予測できる。英国では歴史的に見て財産や文化資本は父系を通じて継承されていたため、もし経済的モデルや文化的モデルが正しいのなら、父方の祖父との相関がすべて母方の祖父よりも高くなるはずだ。逆に社会―遺伝的モデルが正しいのなら、母方と父方のどちらと比べても同じような相関になる。
結果はどうだろうか。Table 5を見ると、財産については父方の祖父の方がずっと高い。財産が父系を通じて継承されているのだから当然の結果だろう。しかし職業の地位や高等教育という指標で見ると、両者の差はほとんどない。父方と同じくらい、母方の方も社会的結果に対して大きな影響を及ぼしているわけで、それをもたらしているのはやはり遺伝だと考えられる。
子供の数はどうだろうか。少なくとも職業の地位という切り口で見た場合、子供の数がもたらす影響は限定的なようだ。Figure 12には子供の数に応じて職業の地位がどれだけ変化するかをグラフで示しているが、子供が12人に達した場合の地位低下は普通の家庭でたったの7%、富裕な家庭で18%にとどまる。確かに子供が多いと下の子は割を食っていたことになるのだが、その度合いはかなり限定的であり、経済的モデルから推測されるほど大きくないことは明らかだ。
そのうえでクラークは、今度は両親がどのように結婚相手を選んでいるかの分析に入る。表現型で見る限り、両親が選ぶ結婚相手との表現型の相関は大半が0.5未満にとどまっている。身長や収入、職業の地位、IQ、BMIなどなど(Table 7)。最も高い教育分野でも相関はやっと0.5だ。
学歴と結婚の相関が高いことは日本でも観測できる事実 だが、極端に高いほどでもない、というのがこれまでの説明だったそうだ。
だがクラークによると、最近の研究では「表現型はともなく、遺伝子型の相関は実はもっと高い」という主張が出ているそうだ。2017年の研究だと教育年数という表現型の相関が0.41だったのに対し、遺伝子型の相関は0.654に達していた。直接、目で見ることができない遺伝子型について、ここまで高い相関が出てくるようなものは、教育分野以外では存在しなかったという。
どうやらカップルは単に教育年数だけで相手を選んでいるわけではなく、互いにつきあう中で相手の知的能力、全般的な知識、世界を理解する能力などを見定めたうえで、望ましいと思った相手と結婚しているようだ。この事実を確認するため、クラークは1837年からイングランドとウエールズで行われてきた結婚証明書の記載を利用している。証明書には夫婦だけでなく、それぞれの両親の職業も記入されることになっていた。
クラークの分析によると、職業の地位で見た時の花婿とその父親との相関は、いつの時代も花嫁の父親との相関より少し高い程度だったという(Table 8)。つまる男性は結婚相手の女性を探す時、その父親が自分の父親と似たような職業の地位にある女性を相対的によく選んでいた傾向があるのだ。Table 9にあるmとは両親の遺伝子型の相関を示すものだが、その推計値を見ると1820~1979年まで相関度は常に0.8かそれ以上という高い水準を維持しており、結婚に際して実際はかなり似通った遺伝子型を持つ相手が選好されていた様子が窺える。足元40年はその数字が低下しているが、母数が小さすぎるため信頼度は低い。
前回も述べたように 、両親の遺伝子型の相関が高い場合、ベルカーブはより頂点が低く、横に広がったものになる。それだけ格差の大きい社会になっていると思われるわけだ。英国では表現型だけでなく遺伝子型まで見据えた結婚相手選びが行われてきたし、その結果として社会―遺伝的モデルが成立するような社会的結果の継承が続いてきたことになる。そしてもしこの研究通りなら、適切な社会的デザイン(例えば社会による子供への投資の増加や、文化資本の適切な運用)によって社会的流動性を高めようとする取り組みは、無益だという結論になる。
論文の結論は、クラークが
「格差の世界経済史」 で述べていたことと同じだ。我々が生きているのは、社会的結果がほとんど生まれによって決まっている世界である。だから北欧のように、結果平等を目指すような社会にする方が、より望ましい。本人の努力とは関係ないところで社会的なポジションがほぼ決まるという彼の説は、前回も書いた通り現代的な価値観からは受け入れがたいものだろう。
こちら ではこのグラスゴー大学の判断についての記事が載っているのだが、のっけから講演が延期されたのは「タイトルが理由」と指摘している。もっと言えば表題に含まれる「ベルカーブ」の一言のみが問題視されているのであり、クラークの論文の中身を踏まえた批判や問題提起が原因ではないそうだ。以前から指摘している
Wokeism やそれに伴うキャンセルカルチャーの一種だと考えるべきだろう。
なぜベルカーブが問題になるかというと、1994年に出版された
同名の本 が理由だ。この本が大いに論争を呼んだせいで、以後「ベルカーブ」という言葉それ自体がレイシズムの証拠であるかのように見なされるようになった。グラスゴー大学はクラークに対して、講演の表題にベルカーブという言葉を使わないように求めているわけで、クラークはそれを拒否している。かくしてただのダジャレが論争の種になってしまったわけだ。
基本的に大学側の姿勢がおかしいのは否定できない。クラークの論文は英国の事例を取り上げたわけで、しかも古いものは18世紀のデータである。移民が急激に増えている最近のデータを使っているのならともかく、ここまで古く遡ったデータから人種差別的な結果を導き出すのはむしろ難しそう。平べったい(格差の大きい)ベルカーブは英国という階級社会ならではの特徴かもしれないが、それはレイスの問題ではなくクラスの問題だ。それにクラークが論文で行ったのは統計的分析であり、それを批判したいのならむしろきちんと講演をやらせたうえで質疑応答を通じて疑問点を指摘すればいい。講演をさせないというキャンセルカルチャー的手法は、アカデミズムの世界では禁じ手のはずである。
とはいえ現実の大学は社会の政治的動向と無縁でいられない。
ピンカーを巡る議論 と同様、学問の世界に政治を持ち込む連中は必ずいるし、おそらくグラスゴー大学でもそうなのだろう。大学側が打ち出した「ベルカーブという言葉を使わない」という案は、名を捨てて講演実施という実を取るための最もやりやすい対策、と見ることもできる。もちろん、クラークがそうした事情を忖度しなければならない理由はないわけで、大学にとっては苦しい場面だ。
北欧的な福祉国家政策を支持しているあたり、クラークもかなりリベラルな人物なのだろう。だが今の世の中には、米国でも欧州でもそうしたリベラルな研究者に対して表面的な言葉遣いなどを理由に攻撃を加えるwokeismが蔓延している。以前にも書いた通り、攻撃側はエリート過剰生産に基づくアカデミズムの世界での競争激化を受け、少しでも有利な地位を得るべくキャンセルカルチャーを利用しているのだと思う。本当なら学問的妥当性を巡る競争を行い、その結果として評価を高めてポジションを得るのがあるべき姿だが、そういった正攻法で勝てそうにない者たちが裏技に頼っているのが現状なのだと思う。ヘミングウェイのダジャレから始まったトラブルがこうした事態に至ってしまうあたり、問題の根は深い。
個人的に何より残念なのは、クラークの説の面白さがほとんど表に出ないまま、どうでもいい論点ばかりが注目されるところだ。クラークも自身の主張が過激すぎるという理由で批判を浴びるならまだ納得したのではなかろうか。さすがに「そのシャレはやめなしゃれ」だけで引っ込むわけにはいかなかったのだろう。
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