エチオピアの火薬 下

 前回に続きエチオピア=アダル戦争における火器の使用について。初めて火器が使われたのは、具体的にこの戦争のどの局面だったのだろうか。
 英語wikipediaによると1529年に行なわれたシンブラ=クレの戦いにおいて、アダル・スルタン国の側に「マッチロック銃兵のエリート中隊」がいた、という記述がある。エチオピアの軍が火器で武装した戦力と戦うのはこれが初めてだった、という説明だ。論拠となっているのはPankhurstのThe Ethiopian Borderlandsだが、残念ながらネット上では彼が何を論拠にそう言っているのかまでは分からない。
 A Short History of Ethiopia and the Hornには「アフマドの戦役の年代記作家であるシハブ・アド=ディンは、彼の最初の主要な勝利であったシェンブラ=クレ(現代のモッジョ周辺)において、マスケットで武装し彼とともに戦った約100騎のイエメン騎兵について言及している」(p79)との一文がある。Pankhurstがマッチロック銃兵としているのに対し、こちらはマスケットで武装した騎兵と記述が異なるが、こちらの文章を信用するのなら、シハブ・アド=ディンの書いた「アビシニア征服」に火器使用に関する記述があることになる。
 しかしこの本をBassetがフランス語に翻訳したHistoire de la conquête de l'Abyssinieを見ても、シンブラ=クレの戦いについて記述している部分(p116-131)にマスケット(mousquet)という文言は出てこない。Imperial And Asiatic Quarterly Reviewに載っているThe Conquest of Abyssiniaにもこの戦いに関する簡単な記述が記されている(p332-333)が、そこにも火器に関する言及は全くない。
 同じくBassetがフランス語に翻訳したエチオピア年代記にも「シェンブラ=クレ」の戦いに関する記述がある(p104)。しかしこちらを見てもやはり火器に関する記述らしきものは見当たらない。Pankhurstがどのような論拠に基づいてこの戦いに「マッチロック銃兵のエリート中隊」が参加していたと主張しているのかは分からないが、アダル・スルタン国の史料にも、エチオピア側の史料にも見当たらないのは困ったものだ。もちろん私が史料を見落としている可能性も十分あるが、現時点でこの戦いがエチオピアにおける最初の火器との戦いと断言することはできない。
 ちなみにシハブ・アド=ディンによると、この戦いに参加したアダル・スルタン国軍は騎兵が1万6000騎で、盾と、毒のついた弓矢、ジャベリンなどで武装していた歩兵が20万人おり、アビシニア軍の騎兵は数えきれないほどいたのに対し、アダル側は騎兵が560騎、歩兵は1万2000人だった(p116-120)。Bassetによるとエチオピア側の年代記には、自軍の騎兵が3万騎以上おり、盾を運ぶものは無数にいた一方、ムスリム側は騎兵は300騎を超えることはなく、歩兵も少数だったとあるそうで、エチオピア側が一方的に優勢だったのは間違いなさそう。
 にもかかわらず、「グラン」ことアフマドはこの戦いに勝利したという。エチオピアとの本格的な対戦の始まりとなったこの戦いにおける勝利は、その際に被った損害こそ大きかったが、この後の戦争の流れを決めることになったのかもしれない。彼は2年かけて損害を癒すと、その後はしばらく一方的にエチオピアを攻めまくることになる。

 シンブラ=クレとは異なり、ほぼ確実に火器が使われたと考えて問題ないのが、1531年に行なわれたアントゥキヤの戦いだ。Imperial And Asiatic Quarterly Reviewに載っている記事では、この戦いについて「彼[エチオピア王]はアントゥキヤ、あるいはアンタキヤに、騎兵6000騎及び約10万人の歩兵とともに布陣したが、イマーム[グラン]ははるかに小さな戦力で彼を攻撃した。後者の大砲はアビシニアの隊列に大混乱を引き起こし、次々となぎ倒したため、大軍は逃げ出した」(p335)と記している。
 ありがたいことにこちらの戦いについてはシハブ・アド=ディンの記録にもきちんと出てくる。それによるとこの戦いでイマームは大砲を運んでエチオピア兵の前に配置し、それを射撃するよう部下に命じている。大砲は地面に置かれ、狙いをつけて放たれた。砲弾はエチオピア軍の真ん中にあるオリーブの木に命中してこれを真っ二つにした。エチオピア軍が混乱しているのを見て、イマームは騎兵に「今だ、突撃!」と命令したという(p185)。彼が率いた軍勢は騎兵500騎、歩兵1万人だったそうで、この戦いも少ない兵力でありながら勝利した、というのがムスリム側の主張だ。
 グランに同行した年代記作家が書き残したものだけに、おそらく信頼できる記述であろう。エチオピア年代記の方にはアントゥキヤという名前の戦いはないが、戦場に近いアイファルスでの戦いについての記述はある(p104)。ただし、この戦いで火器が使われたのは間違いないとしても、それが決定的な役割を果たしたかと言われるとそうではない。大砲はあくまでエチオピア兵を混乱させる役に立っただけで、最終的な勝利を決定づけたのは騎兵だったと思われる。
 グランはどこからこの大砲を手に入れていたのだろうか。実は遠征開始前に彼はゼイラを経て7門の大砲を仕入れており、それを扱うために70人のアラブ人も雇ったという(p170-171)。前にも述べた通りゼイラはインド洋に面した港湾であり、そこから新しい軍事技術を取り込んでいたことになる。ただしエチオピアと同じキリスト教徒のポルトガル人経由ではなく、あくまで同じイスラム勢力からの技術導入だった。
 またこの時点で手に入れた大砲が、具体的にどのような大砲であったかについての言及はない。後にグランはゼイラに対し、新しい大砲を送るよう指示を出している。その際には「大きな青銅製大砲1門と小さな鉄製大砲2門が購入され、ラクダの背に載せて運ばれた」(p407)ことが書かれている。ラクダに載せて運んだ火器といえばザンブーラックだが、あれはかなり小さな火器だ。「大きな青銅製大砲」もこのような形で運んだのだとしたらそのサイズは限定的だっただろうし、小さな鉄製大砲に至っては銃に毛が生えたようなものだったと想像される。
 エチオピアに火器をもたらしたイスラム勢力において、一部では大きな大砲も使用されていたが、数が多かったのはザンブーラックのような比較的小型で取り回しのいい大砲だった。後にアダルを支援したオスマン帝国の大砲が、西欧のものと比べても小さい口径であったことは以前にも指摘している。おそらくグランの軍勢も似たような大砲を使用していたのではなかろうか。エチオピアの地形を考えると車両の移動に向いた道路が多数あったとも思えず、やはり小型砲の方が使い勝手はよかったと思われる。
 ちなみに大砲を持っていたのはアダル側だけではない。後にグランが病気で動けない時にムスリムがエチオピア軍を攻撃し、大砲を奪ったという記述がアビシニア征服の中にある(p218)。ただし、雨季に入ったところでラクダが疲れ切って大砲を引っ張ることができなくなったため、グランの軍は自分たちで持ち込んだ7門の大砲と、敵から奪った6門の大砲を全部放棄することを強いられている(p240-241)。エチオピア側の大砲がどんなものだったかについては、正直よく分からない。

 Imperial And Asiatic Quarterly Reviewに載っているThe Conquest of Abyssiniaには、1515年にアラビアに火器が伝播したこと、一方でアビシニアにはまだ伝わっていなかったため、グランは「発展した武器の利点をフルに利用できた」と書かれている。彼の軍にはイエメンのザビードからきたトルコ人で編成されたマッチロック銃兵の正規軍部隊が同行していたそうで、それに対しエチオピア側は1530年代に入ってようやくアラブ人の反逆者が扱う大砲を使えるようになったという(p358)。
 実際には前にも紹介したように、エチオピアには15世紀前半に既に火器が伝わっていた可能性がある。この文章が書かれたのは20世紀初頭の頃であり、その後の研究の発展もあって記述が古くなっている部分があると見られる。グランの戦争において火器が使われたことは間違いないが、それがどれほど決定的な役割を果たしたかについては、それほど明確だとは思えない。
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