だがいずれは外部から来たものではなく、自分たちも火器を使うようになる。そうした事例の一つが、サブサハラのエチオピアにおける火器使用の歴史だ。サブサハラの中でも極めて古い歴史を持つ国だが、火器について言えばその歴史はOikoumeneから伝来してきた外部技術の受け入れについての歴史となる。
この時期に火器が伝来していたという話は、Bassetの
Études sur l'histoire d'Éthiopie に紹介されている脚注が論拠になっているようだ。イシャクの兵はエチオピアに逃げ込んできたマムルークの脱走兵によって訓練されていたそうで、さらにアルトゥンボガという名前の、同じく亡命してきた人物が、「ギリシャ火」を作ったという(p241)。このギリシャ火という言葉は、エチオピア語で後に銃を意味するようになるが、Bassetによればこの時点でこの言葉が火器を意味していたとは言い難いという。だがPankhurstはこれを火器と見たようだ。
15世紀序盤の時点でエチオピアで火器が製造されていた可能性についてはどう考えたらいいのだろうか。一応、
マムルーク朝で1360年代に砲兵が現れたという説は存在している 。そのマムルークから亡命してきた人物がエチオピアで訓練にあたっていたことを踏まえるなら、あり得なくはない。火器といっても基本は単なる金属製の筒である。金属加工技術を持つ人々なら製造は難しくないだろう。
この16世紀前半の時期にエチオピアでは何があったのか。宗教戦争である。
エチオピアは古くからのキリスト教国であり、ソロモン朝の時代もそれは変わらなかった。一方、イスラム教はエジプトから南方へと勢力を伸ばしており、この時期には「アフリカの角」の北部沿岸、港湾都市ゼイラを中心とした
「アダル・スルタン国」 が存在していた。ゼイラは対外交易の入り口であり、アダル・スルタン国はそこから様々な新しい技術を仕入れていたようだ。
両国は15世紀から時に対立し、時に共存してきたが、その流れが大きく変わったのは「グラン」や「グラニィ」(左利きの意味)といったあだ名で知られた
アフマド・イブン・イブラヒム・アル=ガジー がアダル・スルタン国のイマーム(宗教指導者)になった時だった。彼はエチオピアを相手にジハードを展開し、その領土の大半を征服することになった、
ただし、この「アビシニア征服」という記録は1530年代半ばで終わっており、続きは存在していない。それ以降は別の記録を使って調べるしかないのだ。エチオピアの大半を征服したグランだが、抵抗をつづけたエチオピア皇帝は、既に喜望峰ルートを発見してインド洋に勢力を伸ばしていたポルトガルに支援を求める。彼らは1541年にエチオピアに到着し、1543年には
ワイナ=ダガの戦い が行われ、グランは戦死する。アダル・スルタン国によるエチオピア征服の取り組みはここで挫折した。
グランが戦死したワイナ=ダガの戦いは、英語wikipediaによればポルトガルのマスケット兵70人がエチオピア側に、オスマン帝国のマスケット兵200人がアダル側について戦ったことになる。日本ではポルトガル人が鉄砲を伝えたまさにその年(
鉄炮記 )に、既にサブサハラでは双方の軍が銃を使って大規模な交戦をしていたことが分かる。ただ、どちらも同盟国というか外国傭兵が銃を使っていたのは興味深い。
以前Hoffmanが唱えた、
火薬技術を進歩させるための条件について紹介した ことがある。彼が示した条件の中には、最新の軍事イノベーションを低コストで入手できるというものもあり、その際には西欧からの距離が重要であった。少なくとも16世紀前半の時点では、西欧からの距離においてエチオピアの方が日本より火器を導入しやすかったということだろう。
長くなったので以下次回。
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