エチオピアの火薬 上

 これまで色々と火薬関連の歴史を調べてきたが、対象としていたのはChaseの述べたOikoumene(エクメーネ)、つまりユーラシアの大半とサハラ以北のアフリカ地域。それ以外の、例えばアメリカやオセアニア、そしてサブサハラ・アフリカについては(Seshatのデータ調べた時を除けば)ほとんど言及していない。火薬がOikoumeneで発展し、そこから他の地域へと持ち込まれたという歴史があるからだ。
 例えばアステカを滅ぼしたコルテスは13丁のマスケット銃を持っていたという(The British review and London critical journal, p165)。インカと戦った時にピサロは大砲4門とアルケブス12丁を保持していたそうだ。数としては微々たるものだが、Oikoumeneから来たものたちがまず火器を使った様子が窺える。
 だがいずれは外部から来たものではなく、自分たちも火器を使うようになる。そうした事例の一つが、サブサハラのエチオピアにおける火器使用の歴史だ。サブサハラの中でも極めて古い歴史を持つ国だが、火器について言えばその歴史はOikoumeneから伝来してきた外部技術の受け入れについての歴史となる。

 Richard PankhurstのThe role of fire-arms in ethioрan cultureによると、エチオピアに最初に火器が登場したのは、15世紀のイシャク1世(在位1414-29年)の時代だという。ソロモン王とシバの女王の子孫を名乗るソロモン朝の時期だ。ちなみにエチオピアの歴史については古くはこういう本などで西欧に知られていた。
 この時期に火器が伝来していたという話は、BassetのÉtudes sur l'histoire d'Éthiopieに紹介されている脚注が論拠になっているようだ。イシャクの兵はエチオピアに逃げ込んできたマムルークの脱走兵によって訓練されていたそうで、さらにアルトゥンボガという名前の、同じく亡命してきた人物が、「ギリシャ火」を作ったという(p241)。このギリシャ火という言葉は、エチオピア語で後に銃を意味するようになるが、Bassetによればこの時点でこの言葉が火器を意味していたとは言い難いという。だがPankhurstはこれを火器と見たようだ。
 15世紀序盤の時点でエチオピアで火器が製造されていた可能性についてはどう考えたらいいのだろうか。一応、マムルーク朝で1360年代に砲兵が現れたという説は存在している。そのマムルークから亡命してきた人物がエチオピアで訓練にあたっていたことを踏まえるなら、あり得なくはない。火器といっても基本は単なる金属製の筒である。金属加工技術を持つ人々なら製造は難しくないだろう。
 15世紀初頭の時点では欧州においてもまだ比較的単純なタッチホール式の銃「ハンドゴン」が使われていた時代である。点火装置などの凝った構造はまだほとんど存在しなかった。当然、エチオピアでもそのようなものは作られなかっただろう。せいぜいフス戦争で使われたピーシュチャラのようなものにとどまっていたと思われる。
 とはいえ、この時点で伝わった火器は広く使われるに至ってはいない。Agostonも言っているように、火器の重要性はそれが最初に使われた時期よりも、「軍事的紛争の結果に重要なインパクトを与えるのに十分なだけ効果的に使われるようになったのがいつか」で見るべきである。Pankhurstはエチオピアが火器を自分たちのものにしたのは「16世紀の第2四半期」、つまり1525-50年のことだとしており、そちらの方こそ歴史的に見れば大切であるのは確かだろう。
 この16世紀前半の時期にエチオピアでは何があったのか。宗教戦争である。

 エチオピアは古くからのキリスト教国であり、ソロモン朝の時代もそれは変わらなかった。一方、イスラム教はエジプトから南方へと勢力を伸ばしており、この時期には「アフリカの角」の北部沿岸、港湾都市ゼイラを中心とした「アダル・スルタン国」が存在していた。ゼイラは対外交易の入り口であり、アダル・スルタン国はそこから様々な新しい技術を仕入れていたようだ。
 両国は15世紀から時に対立し、時に共存してきたが、その流れが大きく変わったのは「グラン」や「グラニィ」(左利きの意味)といったあだ名で知られたアフマド・イブン・イブラヒム・アル=ガジーがアダル・スルタン国のイマーム(宗教指導者)になった時だった。彼はエチオピアを相手にジハードを展開し、その領土の大半を征服することになった、
 彼が行った戦争については、Imperial And Asiatic Quarterly Reviewに採録されているFrederick EdwardsのThe Conquest of Abyssinia(p320-360)に概要が載っている。実はこのグランによる戦争は、それに同行した歴史家シハブ・アド=ディンが細かく記録し、Futuh Al-habasa(アビシニア征服)という歴史書にまとめている。目撃者が書き記したものだけに、この記録は「権威ある」ものであり「その記録は豊かで確かに信頼に足る」(Edwards, p322)と見られている。
 この記録の英訳本は上で紹介しているが、ネット上ではフランス語訳とイタリア語訳が無料で閲覧できる。フランス語訳はBassetの記したHistoire de la conquête de l'Abyssinieと、Paulitschkeの記したFutuh el-Habacha(こちらは残念ながら閲覧不可)の2種類があり、イタリア語訳はNerazziniのLa conquista mussulmana dell'Etiopia nel secolo XVIが存在する。
 ただし、この「アビシニア征服」という記録は1530年代半ばで終わっており、続きは存在していない。それ以降は別の記録を使って調べるしかないのだ。エチオピアの大半を征服したグランだが、抵抗をつづけたエチオピア皇帝は、既に喜望峰ルートを発見してインド洋に勢力を伸ばしていたポルトガルに支援を求める。彼らは1541年にエチオピアに到着し、1543年にはワイナ=ダガの戦いが行われ、グランは戦死する。アダル・スルタン国によるエチオピア征服の取り組みはここで挫折した。
 この「エチオピア=アダル戦争」の後半部については、ムスリム側ではなくポルトガル側の史料が参考になるようだ。The Portuguese expedition to Abyssinia in 1541-1543がその一つ。他にも上に紹介したBassetのÉtudes...や、Revue sémitique d'épigraphie et d'histoire ancienneに載っているNotes pour l'Histoire d'Éthiopie(p263-270)なども使えそう。
 グランが戦死したワイナ=ダガの戦いは、英語wikipediaによればポルトガルのマスケット兵70人がエチオピア側に、オスマン帝国のマスケット兵200人がアダル側について戦ったことになる。日本ではポルトガル人が鉄砲を伝えたまさにその年(鉄炮記)に、既にサブサハラでは双方の軍が銃を使って大規模な交戦をしていたことが分かる。ただ、どちらも同盟国というか外国傭兵が銃を使っていたのは興味深い。
 以前Hoffmanが唱えた、火薬技術を進歩させるための条件について紹介したことがある。彼が示した条件の中には、最新の軍事イノベーションを低コストで入手できるというものもあり、その際には西欧からの距離が重要であった。少なくとも16世紀前半の時点では、西欧からの距離においてエチオピアの方が日本より火器を導入しやすかったということだろう。

 長くなったので以下次回。
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