ビスマルクの言葉?

 以前、こちらのコメント欄で、「歴史は繰り返すのではなく韻を踏む」という文言の由来について少し触れた。一般にこの言葉はマーク・トウェインのものと伝えられているが、実際には明確な証拠はないようだ
 この手の話は前にもいくつか紹介している。一例が、ナポレオンのものとされていた「場所は取り戻せるが、時間は決して取り戻せない」だ。こちらで指摘したように、実際にこの台詞を残しているのはナポレオンの敵だったグナイゼナウ。ある書籍の英訳本が出た際に勘違いするものが登場し、結果として英語圏から他の地域にまで広がっていったと見られる。
 同様にしばしばツッコミが入っているのが、ダーウィンの言葉とされる「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」だ。実際にはこの言葉は米国の経営学教授が書いた本の中にある文言であって、ダーウィン自身がそうした言い回しをしていたわけではない。ただし、一字一句同じではないが似たようなことは言っている、との指摘はある。
 有名人に仮託して何やらもっともらしい警句を語らせるというのはおそらく昔からよく見られた現象であり、そのターゲットとされた著名人も様々だ。そのうちの一つ、ビスマルクの言葉とされることが多い「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」について少し調べてみたので、その結果を書いておこう。

 この手のものを紹介しているwikiquoteの日本語版を見ると、確かに「ビスマルクに帰せられる」言葉として紹介されている。より正確には「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」だそうで、さらに英語版として「愚者は自分の経験に学ぶと言う、私はむしろ他人の経験に学ぶのを好む」という言い回しも紹介している。
 複数の表現が出回っている時点で既に怪しさ大爆発だが、ここはまず確認を進めよう。wikiquoteには英語版もあるのだが、そこで経験experienceを検索してみると、驚いたことに政治経済の分野においては科学の曖昧な原則よりも「私は我々の持つ経験に従って判断する」I judge according to the experienceという、まるで愚者のような発言をビスマルクしていることが分かる(1879年5月2日の議会での演説)。
 ドイツ語版になるとさらに酷い。確かにその中には似たような言い回しが載っているのだが、日本語版で紹介されているNur ein Idiot glaubt... という言い回しではなく、Ihr seid alle Idioten zu glauben... という表現になっているうえに、そもそもこの文言は「間違って彼のものとされている」項目に置かれている。要するにこの格言っぽい言葉は、実はビスマルクのものではない、というわけだ。
 では誰がこの発言についてビスマルク由来だと言い出したのだろうか。レファレンス協同データベースの中には、この言い回しについての質問への回答がいくつかある。一例がこちらなのだが、それによれば『戦略論:間接的アプローチ』(原書房,1986)の2ページ目に、ビスマルクの言葉の引用としてこうした発言が収録されているという。こちらでも同様に「リデル・ハートの『戦略論』という資料に引用されている」ことまで突き止めている。だが本当にビスマルクの言葉であるかどうかは確認できなかったようだ。
 リデル・ハートの書籍内にこうした言及があるのは間違いない。1944年に出版されたWhy Don't We Learn From Historyという本の中には、「『理論家』に対して自分たちを『実務的な人間』だと描写したがる者たちにふさわしい、軽蔑に満ちたコメントを残したのはビスマルクである」と前置きしたうえで、件の一文を乗せている(p7)。実際には上に紹介した通り、ビスマルクは理論より経験を重視するような発言をしていたわけで、この引用は事実とは真逆と言っていいだろう。
 しかしこの文言をリデル・ハートが最初に生み出したのかというと、そうではない。例えば1898年に出版されたThe Real Bismarckという本の中には、ビスマルクが「愚者は敢えて自らの経験のみから学ぼうとする。私は他者の経験に学ぶ」という「高慢で利己的な格言」を述べた(p216)という記述がある。リデル・ハートの本から半世紀近くも前に既にこの発言がビスマルクのものだとされていることが分かる。
 私が探した中で、この発言をビスマルクのものだと明言している最古のものは、1890年にロンドンで出版されたBismarck Intimeという本だ。それによると、人生において経験を得るのにどれほどのコストがかかるかという議論の際に、彼はしばらく黙っていた後で以下のように述べたそうだ。「愚者は、経験を得ることができるのは自身で負担したときのみであるかのようなふりをするが、私は常に他者の負担から何とか学んできた」(p180)。
 表題を見る限り、この本はビスマルクの同期生が書いたものをHenry Haywardが翻訳したとなっているが、ではオリジナルがどのような題名の本であるかといった記述は見当たらない。そもそもこの本の原著に相当するドイツ語の本があるかどうか、あったとしてそれがどの程度の信頼度を持つ書物であるかは不明だ。というのも、当時Eclectic Magazineに書かれた書評を見る限り、この本は「ゴシップに毛の生えたようなもの」であり、「名目上はビスマルクをよく知る者によって書かれたとされているが、実際は架空のものであると疑わずにはいられない」(p711)ようなものだった。
 私自身、この本は原著があるものではなく、Haywardが面白おかしく仕上げたフィクションなのではないかと思っている。例えばこの本の中にはビスマルクと、スウェーデンのルドルフ・トルネーイェルムとの交流について触れている部分がある(p33)のだが、google bookで探してもこの両者の交流について言及しているものはこの本以前には存在しない。内容についてはかなり警戒した方がよさそうな本だ。
 ではビスマルクの格言はこの本がでっち上げたのか。基本的にはそうだと思うが、実はさらにその元ネタがある。こちらの本に収録されているCommon senseという雑誌の1887年5月号の冒頭に「経験の教え」というコーナーがあり、そこで真っ先に書かれているのが「経験が愚者を指導する。賢者は他者の経験に学ぶ」という一文だ。ただし、ここには発言者の名前は載っていない。
 その下に1878年にビスマルクが語ったとされる文章が2つほど載っている。その元ネタは1885年に出版されたこちらの本だろう(p2)。でもビスマルクはそこで愚者や賢者について述べているわけではない。彼は、例えば労働者の取り分や、社会的な負担についての見解を述べているだけだ。おそらくHaywardは、下の2つの文章がビスマルクのものだったので、最初の文章についてもビスマルクの発言としてフィクションの中に取り込んだのだろう。

 そして、トウェインやダーウィンと同様、この発言は今に至るまでビスマルクのものとして長く語られている。特にダーウィンの時と同じく、経営学っぽい本の中では無批判に使われているようで、例えば2000年に出版されたこちらの本のp188や、あるいは2013年出版の本の序文(v)には、ビスマルクの言としてドイツ語でこの文章が書かれている。ただし両者の言い回しは異なっている。
 そもそも英語圏ででっち上げられたフィクションだと思えば、ドイツ語で複数の言い回しが存在するのも不思議はない。要するにこの「ビスマルク」発言は、実際には英語からドイツ語へと輸入されたのだ。こうした格言があると言及するのは構わないが、発言主がビスマルクだと述べるのは、おそらく間違っているのでやめておいた方がいいだろう。
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