複数の表現が出回っている時点で既に怪しさ大爆発だが、ここはまず確認を進めよう。wikiquoteには英語版もあるのだが、そこで経験experienceを検索してみると、驚いたことに政治経済の分野においては科学の曖昧な原則よりも「私は我々の持つ経験に従って判断する」I judge according to the experienceという、まるで愚者のような発言をビスマルクしていることが分かる(1879年5月2日の議会での演説)。
ドイツ語版になるとさらに酷い。確かにその中には似たような言い回しが載っているのだが、日本語版で紹介されているNur ein Idiot glaubt... という言い回しではなく、Ihr seid alle Idioten zu glauben... という表現になっているうえに、そもそもこの文言は「間違って彼のものとされている」項目に置かれている。要するにこの格言っぽい言葉は、実はビスマルクのものではない、というわけだ。
リデル・ハートの書籍内にこうした言及があるのは間違いない。1944年に出版されたWhy Don't We Learn From Historyという本の中には、「『理論家』に対して自分たちを『実務的な人間』だと描写したがる者たちにふさわしい、軽蔑に満ちたコメントを残したのはビスマルクである」と前置きしたうえで、件の一文を乗せている(p7)。実際には上に紹介した通り、ビスマルクは理論より経験を重視するような発言をしていたわけで、この引用は事実とは真逆と言っていいだろう。
しかしこの文言をリデル・ハートが最初に生み出したのかというと、そうではない。例えば1898年に出版されたThe Real Bismarckという本の中には、ビスマルクが「愚者は敢えて自らの経験のみから学ぼうとする。私は他者の経験に学ぶ」という「高慢で利己的な格言」を述べた(p216)という記述がある。リデル・ハートの本から半世紀近くも前に既にこの発言がビスマルクのものだとされていることが分かる。
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