バウツェン追加 下

 承前。FabryのJournal des opérations des IIIe et Ve corps en 1813に掲載されている第3軍団の日誌の続きだ。筆者であるコッホは、21日の戦闘においても第5軍団についていくらか言及しており、そのニュアンスは引き続き批判的だ。特にプライティッツ村への攻撃に際して彼らがなかなか到着しなかったことをわざわざ指摘しているのが目立つ(p26)。ただローリストンが側面に敵を抱えて苦労していた点にも言及しており、決して一方的な非難ではない。
 ローリストンらにプライティッツへ急ぐようネイが命令を出したのは、FoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813に載っているネイの報告によるとおそらく午前11時半以降だ(p329)。命令を受け取り、側面にいる敵への対処をしたうえで実際にプライティッツへ向かうという手順を考えると、彼らの到着が午後1時半から2時の間になった(Fabry, p26)のも無理はないと思う。それに、その時間にならないとベルトランの攻撃も始まらなかったことを考えるのなら、ローリストンの到着が少し早くなったところで効果は限定的だったかもしれない。
 それより、この戦闘で面白いのは、コッホが紹介している1つの逸話だ。プライティッツ攻撃のため第3軍団に所属するデルマ師団を呼びに行った時、1人の大佐がデルマのところにやってきて「弾薬がないので我が連隊はこれ以上前進できない」と話したそうだ。それを聞いたデルマは「神よ(Tubleu)」と述べ、銃剣があるだけで神に感謝していた時から15年が経って、フランス兵も随分と変わってしまったものだと慨嘆した。そして大佐に向き直り、「まだ銃剣はあるだろう、よろしい! 大佐、古き良き共和国時代と同じように、それを使え」(p27)と言ったのだそうだ。
 デルマは革命期から軍人として戦ってきた人物だったが、ナポレオンの下では彼に嫌われてパリから30リュー以内に入らぬよう命じられ、スイスのポラントリュイへと引っ込んでいたそうだ(Antoine-Guillaume Delmas, premier général d'avant-garde de la République, p103-105)。1813年になって彼は再び軍務に復帰しており、実に久しぶりに戦場に出てきていたことになる。なお彼は秋季戦役にも参加し、ライプツィヒの戦いで戦死している。

 さてこのFabryがまとめた本には第5軍団の日誌も採録されている。ただ第3軍団の日誌を書いたコッホとは随分異なり、筆者自身の体験や見解などはあまり書かれていない。戦闘など重要が出来事があった日については、自身の説明ではなく軍団長であるローリストンが書いた報告書をそのまま載せていることも多く、見ているとかなり印象の違う日誌だ。
 まずこの日誌、リュッツェンの戦いの後、記述がいきなり5月18日まで飛んでいる(Fabry, p153)。脚注を見る限り、そもそもこの部分は欠落しているらしい。そして18日の記述は淡々と軍団の各部隊の配置を述べているだけで、すぐヴァイシヒの戦闘があった19日へと記述は移る。
 問題はこの19日の記録だ。大半はローリストンがベルティエに宛てて記した報告書を丸写ししているだけなのだが、この報告書の内容がシュタイニッツで書かれた20日付のベルティエ宛報告(Foucart, p304-308)とかなり異なっている。
 例えば冒頭。20日付の報告では軍団がどの道を通ったと簡単に記しているが、日誌に採録されている報告だとまず前衛部隊になっているのがメゾン師団であることを紹介し、その師団を構成する連隊名が載っている。その後に続くラグランジュ師団やロシャンボー師団についても、同様に所属連隊の番号を掲載している。さらに第5軍団所属ながら離れて行動していたピュトー師団についても、わざわざそうした説明を書いている(Fabry, p154)。
 戦闘の経過は基本的に20日付の報告書と同じだが、そこでは触れていない細かな動きについてフォローしているのが特徴。しかもその際にはくどいほど連隊番号を紹介し、どの連隊がどの場面において敵と戦ったのかをはっきりとさせている。戦闘の記述が終わった後には双方の参加戦力と損害の推測値を入れ(p158)、そして最後に活躍した将軍や士官たちの名前を入れている。
 基本的にどの師団にどの連隊が所属しているかといった情報は、報告書をもらったベルティエも把握しているはずだ。それをわざわざ繰り返し書く意味は、おそらくどの連隊が戦闘で活躍したかを上司に印象付けるという狙いにあるのだろう。20日の報告では触れていなかった細かい戦闘まで書き記しているのも、部下がどれだけ活躍したかを伝えて昇格なり褒賞なりにつなげたいと思ったからだ。この時代に限らないと思うが、終わった戦闘に関してわざわざ報告書を書く大きな理由として、自分の下にいる部下たちのアピールという面がある。
 おそらくここに採録されている報告書は、戦闘が終わった数日後、事態が落ち着き、またローリストンの下に戦闘に関する細かい情報が集まって来た後になって、改めて書かれたものだと思う。以前ホーエンリンデンの戦いに関する史料を紹介したことがあるが、グルーシーが同じ12月3日の戦闘について複数回の報告を出していることが分かる。おそらくローリストンも同じことをやり、それが日誌にも採録されたのだろう。
 20日のところには採録はなく、前にも紹介したように午後1時に出発命令を受けたことと、後はやはり各部隊の行動が淡々と書かれている。ただ、最後の部分にある「第17[師団]がカウパの後方にとどまった」(p159)とあるのは、おそらく第19師団(ロシャンボー)の間違いだと思う。実際の第17師団(ピュトー)はその後に書かれている通り、この日の夜にシュタイニッツに到着していたと思われる。
 21日の記述は再び報告書の採録に終始している。ただしこちらの元ネタはFoucart本に載っているものと同じであり、悩む必要はない。最初に出てくるローリストンからベルティエへの報告(Fabry, p159-163)はFoucart本のp331-334と同じだし、その後に出てくるメゾンの報告(Fabry, p163)はFoucart本のp334にある。そしてこの日誌は、最後に21日の戦闘におけるローリストン軍団の損害(士官1人死亡、10人負傷、歩兵36人死亡、209人負傷、砲兵は23人死亡、24人負傷でうち1人は士官)をこれまた淡々とまとめて終わっている。

 さらに本の後半には、第5軍団所属ながら軍団から離れて行動していた第17師団の日誌も掲載されている。ネイらがルッカウへ向けて動き出した14日の時点で彼らはケーテンからデッサウへ向けて移動中であり、第5軍団主力から大きく離れていたことが分かる(p181)。その後、15日にはケンベルクに、16日にはヴィッテンベルクでエルベを渡ってティーセンに到着し、17日には一気に距離を稼いでダーメに到着したという。
 18日、それまでセバスティアニの騎兵軍団に追随していたピュトーの第17師団だが、それをやめて第5軍団に合流すべくホイヤースヴァーダに向かえとの命令がネイから届いた。彼らはこの命令に従って、この日はフィンスターヴァルデに到着。翌日はゼンフテンベルクまでたどり着いてそこで宿営している。20日にはホイヤースヴァーダを通過して夜8時にシュタイニッツに到着し、21日には午前5時にそこを出発すると、夜7時にヴルシェンの近くでようやく第5軍団に合流した。
 結局のところピュトーの師団はバウツェンの戦いには間に合わなかった。それでも彼らが頑張って長距離の移動を続けてきたことは間違いない。14日以降の彼らの移動距離を現在の地図で見ると、8日間で合計250キロほどの距離を歩いた計算だ。ナポレオン戦争の兵士たちは足で戦ったと言われているが、それを示す一つの事例であることは確かだろう。
 1813年の春季戦役は、ナポレオニック関連の中では今一つ人気がなさそうに見える、ということを以前書いた。足元、インターネットを見る限り、これらの戦いがあまり関心を集めるテーマでなさそうなことは否定できない。だが戦役直後から20世紀の初頭頃までの、ナポレオニック研究が盛んだった時代においては、決してそれほど無視されていた戦役ではなかったのだろう。少なくとも探せばこれだけ色々な史料が出てくる点はありがたいと思うべきだ。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント