バウツェン追加 上

 バウツェンの戦いについて前に色々と書いたが、もう1つ使えそうな史料があるので紹介しておこう。FabryがまとめたJournal des opérations des IIIe et Ve corps en 1813だ。題名の通り、1813年戦役におけるネイの第3軍団とローリストンの第5軍団それぞれの日誌をまとめたものであり、両軍団の動向を確認するうえで役に立つ。
 知っての通りFabryは1796年のイタリア戦役についての本などをまとめている研究者。また日誌の筆者を見ると、第3軍団の方はコッホとなっている。この人物はおそらく1814年戦役の回想を記した参謀少佐(Chef de bataillon d'état-major)、ジャン=バティスト=フレデリック・コッホと同一人物だろうと思われる。またマセナの伝記をまとめた人物の名もKochとなっているが、同一人物かどうかは不明。
 まずは第3軍団の日誌を見てみよう。軍団単位で書かれたものだけに、FoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813でまとめられているものに比べると、軍団内の各師団の動向がかなり詳しく分かる。例えば第3軍団がナポレオンの命令を受けてルッカウへと動き出した5月14日の前衛部隊の動向などは、かなり詳細だ(p19)。この日、前衛部隊はシュリーベンまで進み、第8師団はその後方のポルツェンに、第9師団は司令部とともにハーツベルクに、第10師団はこの町の後方に、第11師団は輸送部隊と並んでさらにその後ろの第2線にいたほか、第39師団がフレマースヴァルデ(ファーマースヴァルデ)の隘路に宿営していたことも分かる(p19-20)。
 またこの日誌には、ネイの指揮下にいた他の軍団に関する記述もたまに出てくる。14日時点だとローリストンの第5軍団はドブレルーク(ドバールーク=キルヒハイン)に、レイニエの第7軍団はヴィクトールと連絡を取るべくイェッセンとシュヴァイニッツに向かっていた。セバスティアニの第2騎兵軍団はデッサウを経てヴィッテンベルクへと進んでいたそうだ。
 彼らの移動はバウツェンの戦いについて分析したものと一致している。ただ日誌には帝国司令部とのやり取りの全てが載っているわけではないので、彼らが何を目的に動いているのかまでははっきりしない部分もある。ネイがルッカウに向かったのはナポレオンの命令があったからなのだが、そうした話は書かれていないし、また途中でシュプレンベルクへ方向転換するよう命令を受けたことについても、この日誌には言及がない。16日にはルッカウ付近にいた各師団が、17日にはカラウ近辺に移動しているという事実だけが記されている。
 だが司令部がネイの目的地をホイヤースヴァーダに変更したことについては、17日の記述で確認できる(p21)。また、この記述を見ると目的地変更と同時にヴィクトールに対するベルリン進軍命令も受け取ったかのように書かれているが、この2つの命令が実際には時間差で到着したことは前に指摘している。日誌にはネイの副官が夜の間にヴィクトールへの命令を運んだとあるので、やはり後者の命令はこの日の夕刻にネイの下にたどり着いたと考えるのが妥当だろう。
 そして何より、以前に指摘したFoucartの解釈に関する疑問点、つまり「いつヴィクトールにバウツェンへ向かうよう命令変更がなされたか」の答えが載っているのが大きい。日誌の18日の記述を見ると、そこには「夜の間に」ネイが皇帝の命令に従って幕僚士官をヴィクトールのところへ送り出し、ベルリンへ行軍せよとの命令を取り消して自分たちに続けと命じたことが、明確に記されている(p21)。ネイはFoucartの解釈にあるように自ら判断したのではなく、あくまでナポレオンの命令に従ってヴィクトールを呼び戻したのだ。

 19日の記述を見ると、興味深いのは第5軍団についての言及がかなり長くなっている点だ。この日は第5軍団がヴァイシヒでヨルクらの率いる連合軍と接触し、またケーニヒスヴァータでベルトランが送って来たイタリア師団の戦闘を第3軍団前衛部隊が支援した日だったのだが、第3軍団の日誌ではローリストンの対応に対する批判が色々と書かれている。
 まずホイヤースヴァーダを出発したのが遅すぎたこと。第3軍団はホイヤースヴァーダを経てケーニヒスヴァータへ向かう予定だったが、ドレーザへ向かうことになっていた第5軍団が「ヴァータへ前進する代わりにケーニヒスヴァータの陣地の前後にとどまっていた」(p22)ため、前進を阻害されたと批判している。渋滞のため第3軍団の前衛部隊がホイヤースヴァーダを出発できたのはようやく3時になってからであり、第8及び第9師団がマウケンドルフに到着したのは5時だった。これがなければ第5軍団はヴァイシヒに連合軍より先に到着して戦闘を避けられたかもしれないし、また第3軍団がもっと早くイタリア師団と合流していれば、ロシア軍がヴァイシヒで戦うプロイセン軍を増援することもできなかったのではないか、と日誌は主張している。
 この指摘には1つおかしな点がある。第5軍団の移動が遅れ、彼らが「ケーニヒスヴァータの陣地の前後」にとどまっていたというのは事実に反する。第5軍団はケーニヒスヴァータよりずっと手前で道を変え、シュタイニッツからヴァイシヒへと移動していたはずだ。「ホイヤースヴァーダ」と書くつもりで間違えて「ケーニヒスヴァータ」と書いていしまった、と考えれば辻褄は合う。
 だとしても、この主張は個人的には無理筋ではないかと思う。そもそも先行する第5軍団が集まっているホイヤースヴァーダを経由して第3軍団が移動をしようと試みた時点で、渋滞は不可避だっただろう。迅速な移動を重視するのなら、後から来た第3軍団が先行部隊のいない場所を通るしかなかったし、ネイがそういう命令を出していなかったのだから、遅れは許容するしかない。またローリストンの移動が少し早くなったとしても、ヨルクの軍勢と交戦する場所が少しずれるくらいで、戦闘自体を避けられたとは思えない。
 さらに20日の日誌においても第5軍団に関する記述は詳しくなっている。日誌の筆者自身が350人の兵とともにこの軍団を探したこともその理由だろう。ここで注目すべきは、ネイがこの日の朝にローリストンに対して「第3軍団がケーニヒスヴァータへと行軍することを知らせ、自らの軍団とともに注意深く追随するよう促した」(p23)部分だろう。さらに午前9時にケーニヒスヴァータに到着した後で、ネイはローリストンに対して第3軍団はクリックスへ方角を変えると伝えるべく幕僚士官を派出した。
 一方第5軍団の日誌を見る限り、彼らが出発命令を受け取ったのはこの日の朝ではなく午後1時となっている(p158)。またネイ自身が20日に記した報告書には、ローリストンに対して「ゼルヒェン[第5軍団日誌ではゼーリゲン]とライヒナムに向かって行軍するよう命じた」(Foucart, p309)が、誤解などがあってローリストンの出発は午後2時になったとある。日誌にある朝いちばんの「追随せよ」という命令への言及は、この報告書にはない。
 実際問題、ネイがいつ命令を出し、それをローリストンがいつ受け取ってどのように対応したかについて判断するには、手元にある材料だけでは難しい。本当に朝いちばんで「追随せよ」との命令が出ていたとしても、正直この命令内容は曖昧に過ぎるし、ケーニヒスヴァータとヴァイシヒの距離の近さを考えると朝のうちはネイの動きを見定めるべく移動せずにいたローリストンの判断はそれほどおかしくない。
 次に午前9時のケーニヒスヴァータ到着後にネイが出した命令だが、これは具体的にいつ派出されたのかが不明。例えば10時頃に出たとした場合、シュタイニッツには2時間とかからずに到着すると思われるだけに、午後1時に命令を受けたという第5軍団の主張はおかしくなる。だがネイが命令を出したのが例えば11時過ぎだとしたら、午後1時の命令受け取りはあり得なくはない。ケーニヒスヴァータで情勢を見極め、次の方針を決めるまでに、ネイがどのくらいの時間をかけたかによって、ローリストンの言い分と辻褄が合うことも合わないことも起こり得るのだ。
 バウツェン会戦が始まった20日におけるローリストン軍団の出発遅れの原因が、第5軍団側の誤解なり不手際なりに由来するのか、それともネイが命令を出すのが遅れたためなのか、これらの史料からはなかなか判断が難しい。ここは安易に結論に飛びつくのはやめて、「正確なことは分からない」点を認めるべきだろう。

 長くなったので以下次回。
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