マインツ出撃 下

 1793年のマインツ攻囲に関し、Chuquetはその本の中でいくつかの細かい戦闘に1章を当てて記述している。前回紹介したモスバッハの出撃もそうだが、それ以外にも「マリエンボルンの奇襲」(p216-222)という章がある。5月30日から31日にかけての夜間、ライン左岸にあるマリエンボルン村に対してフランス軍が仕掛け、結果的には成功しなかった奇襲について記した章である。
 マリエンボルンには攻囲しているプロイセン軍の司令部があったためか、この戦闘は直後から色々と報じられている。報道は英語にも翻訳されており、例えばThe Political State of Europe for the Year MDCCXCIIIには、6月5日付の連合軍側公式記録として、この戦闘に関する記述の英訳が載っている(p299-300)。もっと分かりやすいのはThe Scots Magazineで、1793年6月号の中にこの公式記録が載っている(p283-284)。
 この記録によるとフランス側の奇襲の狙いは司令部を襲い、司令官カルクロイト将軍とルイ=フェルディナント親王、ヴァイマール公を捕らえるか殺害し、プロイセン軍の宿営地に火をつけて破壊することにあったという。まず午前1時前にマインツ南方のヴァイセナウ、北方のモンバッハ、ライン右岸のマイン河合流点とヘッセン軍宿営地に陽動をかけ、ちょうど1時にメルラン、ドイレ将軍らが率いる5000人から6000人の部隊がマインツ西方のマリエンボルンへ出発した。
 この日、連合軍側では農民たちが高く伸びた穀物を刈り取るため、戦場の各所で作業に当たっていた。おそらくはドイツ側の「裏切り者」からこの事実を把握したフランス軍は、さらに連合軍側の合言葉まで把握したうえで、加えて前衛部隊には武器を持たせず、コートを裏返しに着用させ、ピッチフォークを持たせて農民のふりをさせた。
 彼らの先頭にはニーダー=ウルムの事務官であるルスと、4人のドイツ人共犯者が同行し、合言葉を使いながら連合軍側の哨戒線を気づかれることなく潜り抜けていった。彼らについていた2個縦隊はオーストリア軍のふりをしていたという。こうやってザクセン=ヴァイマール胸甲騎兵、ヴェグナー大隊、マンシュタイン大隊の宿営する場所までやってきたフランス軍は、士官たちのいるテントに駆け寄って多くの将兵を倒し、つながれた馬匹を撃ち、さらにマリエンボルン村に突入した。
 連合軍側の公式記録によると彼らは酩酊状態だったそうで、大声で「国民万歳!」を叫んでいたという。プロイセン軍は慌てて戦列を整え、敵から上手く逃げ延びたルイ=フェルディナントは近くで兵を集めて敵の退路を断つべく前進し、またヴルムザー・ユサール連隊も別のところから駆け付けてきた。結局、フランス軍の成果は限定的だったようで、300人の戦死者と士官2人を含む33人の捕虜を出してマインツへと引き上げていった。
 連合軍は士官5人と兵50人の戦死者を出した。ルイ=フェルディナントが負傷したほか、カルクロイトとヴァイマール公は馬匹を失い、こちらも士官1人と兵27人を捕虜に取られた。マリエンボルンではフランス軍は16歳の少女を殺害したという。連合軍側に捕らわれた事務官ルスは、日曜日(おそらく6月2日)に彼らの手によって処刑された。以上が公式記録の大雑把な内容だ。
 フランスにもこの情報はドイツの新聞に掲載された記事という形で伝わっていたようだ。Réimpression de l'ancien Moniteurに採録されている6月13日付のモニトゥール紙には、6月2日付でフランクフルトから届いた情報が載っており、その中にはオランダから砲艦が到着したことや、兵の移動、月末に皇帝がフランクフルトへやってくることといった情報に混じって、この奇襲の記事が簡単に載っている。
 それによるとフランス軍は3つの縦隊でマリエンボルンに向かい、プロイセン軍を奇襲した。攻撃があまりに予想されていなかったため、彼らはほとんど気づかれることなく目的地に到達したという。彼らが「サ=イラ」を歌っていたために、ようやく奇襲に気づいたというのが、この記事の説明だ。多くのプロイセン兵がテント内で殺され、フランス軍は「プロイセンのルイ親王とカルクロイト将軍の馬匹と荷物を奪った」と伝えられていたそうだ(p613)。

 マインツ攻囲戦については、早くも同じ1793年にDie Belagerung der Stadt Mainzという書籍がまとめられており、その中にもマリエンボルンの奇襲に関する記述がある。基本的な流れは同じだが、公式記録ほどプロイセン軍に遠慮している様子はない。それによるとフランス軍の3個縦隊のうち2つはブレッツェンハイムとヘヒツハイムに向かっており、残る1つが気づかれないよう裸足でマリエンボルンに接近したという。
 宿泊していた部屋の窓を3発の銃弾が貫通したことで奇襲に気づいたカルクロイトは、急いで馬に乗って近くの兵がいるところへ向かい、彼らに前進を命じた。一方、フランス軍は村に入り込んで「国民万歳」と叫んでいたという。カルクロイトの近くに忍び寄って来たフランス兵を、歩哨が殴り倒して危機を回避した場面もあったそうだ。結局、フランス軍は10分ほどしか村にとどまらなかった、というのがこの本の説明だ。
 フランス側の損害は捕虜30人と、戦死33人、負傷45人。プロイセン軍の損失は大きく、フォン=フォス騎兵大尉は肺を撃たれて2日後に死亡したほか、タッデン連隊とヴェグナー連隊の多くも死亡し、そして最大の損害を受けたのが11人が戦死し、63頭の馬匹が倒れたザクセン=ヴァイマール胸甲騎兵だったという(p212-213)。
 ザクセン=ヴァイマール胸甲騎兵がなぜ大きな損害を受けたのかについては、Oestreischische militärische Zeitschriftに採録されているEroberung von Mainz durch die Verbündeten, im Sommer des Jahres 1793に記載がある。
 まずマリエンボルンの正面に宿営していたヴァイマール胸甲騎兵の1個大隊は、奇襲によって指揮官を殺されたそうだ(p156)が、彼らの不運はそれで終わらなかった。彼らは反撃のため、ヴルムザー・ユサールとともに敵の左側面に襲い掛かるよう命じられた。ところがそのために村の端にある堡塁を通り抜けようとした時、この堡塁の指揮官は暗闇の中で胸甲騎兵と敵だと思って何度か斉射を浴びせた。負傷者の「我々はプロイセン軍だ」という叫び声を聞いて、ようやくこの射撃は収まったという(p157)。またカルクロイトの副官も宿営地で致命傷を負った。
 損害に関する数字もやはり微妙に異なっている。フランス軍の損害について、具体的な数字を出しているのは捕虜31人だけ。プロイセン軍の損害は戦死者が七十数人としている。こちらもオーストリア側の文献だけあって、プロイセン側の主張に同意するつもりはなさそうな記述だ。

 以上、割と古い史料を中心にマリエンボルンの奇襲について簡単に紹介した。ここで何よりも興味深いのは、連合軍側が合言葉を使っていたこと、そしてその合言葉がフランス側に筒抜けであり、それによって奇襲部隊がかなり簡単にマリエンボルンまで到達できてしまった点だろう。戦闘後に連合軍によって処刑されたルスはどうやら「クラブ員」だったそうで、ドイツ人の中にいた革命シンパがこうした情報を流していたと思われる。
 それだけでなく、攻囲の期間中マインツの内部と外部の間でかなり頻繁な情報のやり取りがあった様子も窺える。Eroberung von Mainzの中には、この出来事を経て、町とのあらゆる交流が厳しく禁止され、あらゆる会話や相互の招待が終わりを迎えたと書かれている。逆に言えばマリエンボルンの奇襲があるまではそうした交流が存在していたわけで、攻囲といってもその実態はあまり厳格なものではなかったのかもしれない。
 もともとマインツはドイツ人が住む町であり、攻囲しているのも同じドイツ人たちであった。守備隊はフランス人だったが、住民が同じ言葉を話す人々であった分だけ、攻囲側としても緩むところがあったのかもしれない。戦闘自体は短時間で終わったかなり小規模なものだったが、関連する情報の中には色々と面白いものが含まれている。
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