最初に読んだ時はよくぞこんなマニアックな話をここまで詳しく、と思ったのだが、最近見直してみるとむしろマインツ攻囲の最中に起きた出来事について面白い部分をクローズアップして取り上げつつ、一方で読者が退屈に思うであろう細部にはあまり立ち入らないようにしながら、かなり要領よくまとめた書物だという感想が浮かんだ。確かに興味深い逸話は多く紹介されているが、一方でマインツにいたフランス軍部隊やそれを囲む連合軍が具体的にいつどのように動いたかを知りたいと思うと、意外に細部が分からない本なのである。
ページ数が少ないだけではなく、戦闘の経過を理解しやすくするための地図についても、Chuquetの本は必ずしも詳細を極めたものとは言い難い。残念ながらgoogle bookでは付図は折りたたまれているために全体を見ることはできないが、Gallicaに掲載されている
Chuquetの本 なら地図を見ることができる。しかし、見れば分かるのだが、この地図はかなり「概念図」に近いものであり、地理的に正確なものかと言われると首肯し難い。
Ditfurthの本ももちろん付図は折りたたまれたままであり、詳細は確認できない。しかしネットを探せばマインツ攻囲に関する地図を見つけることはできる。
こちらのサイト には1793年のマインツ周辺の地図が多く採録されており、中でもGefecht bei Kastel 1793と名付けられた2種類の地図(
こちら と
こちら )は、どちらもモスバッハ出撃の戦闘経緯を描いた地図だ。どう見てもこちらの方が詳しい。
つまるところ、最初に読んだ時は「これは決定版なのでは」と思わされたChuquetの本も、よくよく読んでみればむしろ入門編に近い存在だった、ということになる。それを読んでも表面を撫でた程度のことしか知り得ず、もっと踏み込んだ知識を得たければ他の史料を探し、それらを比較検討する作業は避けられない。分かってはいたが、この世界は底なし沼。踏み込めば踏み込むほど、どんどん深みにはまっていくことが避けられない。
ちなみにこのモスバッハの出撃に際してフランス軍は3つの縦隊をライン右岸のカステルから送り出している。1つはムニエが率いてコストハイムに対する陽動攻撃を行った。上で紹介した最初の地図で言うと左側に向かった部隊がそれで、いったんは村を選挙したがプロイセン軍の反撃によって撤収した。Chuquetによると彼らはワインやその他の食糧、及び125頭の牛を引き連れて帰ってきたという。攻囲された側が物資調達のために行なう出撃は珍しくなく、例えば6日にはクレベールがライン左岸でブデンハイムへと出撃してやはり120頭の牛を手に入れている(p197)。
残る2つの縦隊はそれぞれシャールとオーベール=デュバイエが率いたが、両者はほとんど肩を並べて戦っていた。シャールはカステルからモスバッハを経てヴィースバーデンへ向かう道に沿って進み、デュバイエはライン川沿いにビーブリッヒ方面へ進んだ。シャールはChuquetが言うところの「左翼の堡塁」(地図上ではNo.3と書かれている堡塁)を奪うのが、デュバイエはザルツバッハを渡ってビーブリッヒとモスバッハを奪い、「右翼と中央の堡塁」(No.1とNo.2)を迂回してこれらの堡塁に拠るヘッセン軍を分断するのが狙いだったという。
Ditfurthによると、連合軍は各堡塁を以下のように武装していた。右翼の堡塁(No.1)はプロイセン軍の12ポンド砲2門と曲射砲1門を持ち、士官1人に兵18人、そして10人のプロイセン砲兵が配置された。中央の堡塁(No.2、Ditfurthは
Fleche と呼んでいる)には士官1人と兵10人がいた。左翼堡塁(No.3)はやはりプロイセン軍の12ポンド砲2門と曲射砲1門があり、士官2人、下士官2人、兵30人、プロイセン猟兵10人とプロイセン砲兵10人がいた。
左翼堡塁の前方にはモスバッハの塔と呼ばれる見張り台があった。地図ではMosbacher Warteと記されている。この塔は15世紀後半にマインツ、カステルを守る境界線の見張り用に建てられたものだそうで、この他にも
アーベンハイムの塔 などいくつかの塔がライン右岸に存在していた。マインツ攻囲が行われていた当時、アーベンハイムの塔は連合軍が築いた堡塁に囲まれていた(Ditfurth, p257)。
シャールとデュバイエは午後11時に出発し、闇に紛れて沈黙を守りながら前進した。デュバイエはビーブリッヒの水車を奇襲し、ザルツバッハを渡って右岸にそってモスバッハへ向かった。だが見張りについていたプロイセン兵が狙いをつけずに撃った弾が前衛部隊の兵1人を殺し、それによって混乱が起きた。パニックに陥ったデュバイエの縦隊は、混乱し味方同士で撃ち合いながら逃げ出し、ザルツバッハを渡って後方へと下がった。デュバイエらは沈静化を試みたが無駄だった。
シャールの縦隊は前衛部隊が堡塁に突入し、これを奪うことに成功した。だが近くのヘッセン軍が堡塁奪回に向かってきた時、フランス軍の後続部隊は姿を見せず、むしろ混乱に陥ってこれまた味方同士で撃ち合っていた。それでもシャールとクレベールが第57連隊の2個大隊とともに応援に駆け付けたが、ヘッセン軍の擲弾兵部隊と、それに続く近衛竜騎兵連隊を見て、シャールは退却を命じた。この日の出撃は結局失敗に終わった。
ボーピュイによればこの計画(デュバイエが立案したという)は野心的に過ぎ、戦闘に不慣れな兵を使って実行するには無理があったという。クレベールが提案したように実施を遅らせ、兵たちがもっと戦いに慣れたタイミングですべきだったというのがChuquetの見解だ(p190)。多数の兵を動員したフランス軍が、少数のヘッセン軍に撃退されたのは事実のようで、
アウグスブルクの4月16日付の新聞 には、11日付のホッホハイム発の情報としてこの戦闘がごく短く記されている。
なおこの戦闘には、
後に帝国伯爵となったパジョル も参加していたようだ。
彼の伝記 によると、この戦闘において味方の擲弾兵たちの再編を図っている最中に、彼は左腕を大型のマスケット銃に撃たれたという(p65)。それでも彼は戦い続け、その様子がクレベールの目にとまって後に彼の副官になった。
後に1877年に
Kleber: sa vie, sa correspondance というクレベールの伝記が出版されている。この伝記は
こちら でも紹介しているが、その著者はパジョルの息子だ。父親がかつてクレベールと親しかったからこそ、伝記を書けるだけの資料が手元にあったのだろう。もしこのモスバッハの出撃がなければ、クレベールの伝記がこういう形で存在することもあり得なかったかもしれない。
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