メタエトニーかバンドワゴンか

 Peter Turchinのウェビナーがyoutubeにアップされている。マクロレベルの文化的進化をテーマとしているが、内容はこれまでも紹介してきた帝国の広まり方に関する話や、Seshatのデータから調べた社会の複雑さの進化などの話について触れたものだ。
 その中で彼は何度かマルチレベル選択について言及している。文化的な進化について議論を進めるうえでマルチレベル選択理論が有用であることを主張しているわけで、まあいつものTurchinだ。以前にも書いているが、私は進化論におけるマルチレベル選択が有用な概念だとは全く思っていない。文化的進化について論じる場合は話が違ってくる可能性もあるかもしれないが、普通に生物進化について語る場合は、単に包括適応度について別の言葉を使って説明するだけにとどまるか、さもなくばナイーブな(間違った)グループ進化を主張することになる傾向が強いからだ。
 最近ではスズメバチの生態について実におかしな説明が少しばかり注目を集めたことがあった。いかにも種が進化の主体であるかのような説明になっており、まさに間違ったグループ選択の典型例なのだが、マルチレベル選択はどうしてもこういった議論と親和性を持ちやすくなる。というか、一般の人から見ればむしろこれこそがマルチレベル選択に見えてしまうのではなかろうか。
 この議論がどれだけ間違っているかについてはこちらの増田が詳しく突っ込んでいるので、参照してほしい。女王殺しは別に遺伝的多様性を維持するために行なわれているわけではないし、ましてスズメバチという種が個体数を増やしすぎないようにするための安全装置なるものが存在するわけでもない。スズメバチよりはるかに危険なヒトという生物が急激に数を増やしているのを見るだけでも、そんな仮説が成立しないことは明白だろう。
 スズメバチの行動は全て利己的な遺伝子によって説明がつけられる。働きバチの遺伝子にとって姉妹は娘より大事だが、兄弟は息子より大切ではない。だから女王が息子を生む段階になると、女王を殺して自分もしくは姉妹が生むようにした方が、遺伝子にとって好ましい(つまり包括適応度の高い)状況になる。この増田が言うように「生物は利己的な遺伝子の命ずるまま生み育て地に満ちる」のであり、そこにナイーブなグループ選択と同じ意味を持つようなマルチレベル選択が入り込む余地はない。

 Turchinがこの理論を好む理由は私には分からない。彼はもともと生態学の出身であり、生物が専門でない外部の人間が勘違いをしている、という理由ではないだろう。上のエントリーでは彼が集団的な価値を重視する人物なのではないかと推測をしたが、特にはっきりとした論拠があるわけでもない。確かに彼のblogにはリベラルに対する批判ともとれるエントリーがあるが、一方で古いエントリーを見ると右翼の茶会党こそが妥協を拒否していると書いているものも存在しており、別にリベラルだけを一方的に批判しているわけでもない。
 もしかしたら、youtubeでも述べていたように、彼の理論を説明するうえでマルチレベル選択が役に立つと本当に思っているのかもしれない。実際、「国家興亡の方程式」で唱えているメタエトニー辺境理論は、まさにこのマルチレベル選択を大きな根拠としている。俺らと奴らの対立が集団のアサビーヤを高める。そしてそうした集団が内部の連帯感を生かして拡大し、帝国を生み出す。そうした現象を説明するうえで、マルチレベル選択こそがふさわしい、という理屈だ。
 アサビーヤの高い集団は、いわば利他的な個人で構成される利己的なグループだ。個々人ではなくグループが利己的に行動している以上、これは一種のグループ選択が働いているに違いない。そんな風に考えた結果として、マルチレベル選択理論を採用することになったのではなかろうか。Turchinの言うように帝国が基本的にメタエトニー辺境からのみ生まれるのだとしたら、その見方にも一理ある。
 だが、本当に帝国はメタエトニー辺境で鍛えられた強固な集団からのみ生まれるものだろうか、という疑問は以前にも記した。Turchinが紹介している事例の中にも、イタリア(ピエモンテ)やフランスのようにメタエトニー辺境から生まれたとは言い難い事例があるし、何より日本はどう見てもメタエトニー辺境にいたとは思えない。確かに日本は中華文明の辺境にいたかもしれないが、反対側には海しかなく、エスニシティーの境界など存在しなかった。また中国のように統一されていた時期が長い地域の場合、辺境出身の王朝がむしろ中華文明に取り込まれるという展開が多い点も気にかかる。彼らのアサビーヤは本当に言われているほど強かったのか。
 むしろ「分断された土地」で中国の帝国形成に関して紹介した説、つまり勝ち馬に乗る「バンドワゴン効果」の方が、この手の帝国形成の説明としては適切ではないだろうか。少なくとも地理的に孤立している日本の場合、外部からの援助が期待できないだけに、勝ち馬が見えてくれば皆一斉にそちらになびく現象が起きたと考えてもおかしくはない。ChaseがFirearmsで指摘している雪玉効果などは、まさにその典型と言えるだろう。
 バンドワゴン効果とは、いわば小さなグループの構成員が大きなグループに流れ込む現象である。Turchinがメタエトニー辺境理論などで活用しているマルチレベル選択が唱えるグループ概念、つまり強固な連帯感を持つ利他的メンバーで構成される利己的に行動するグループという考えに基づいて、この現象を説明するのは難しい。何しろ個別グループでのまとまりを放棄し、より大きなグループの一員に雪崩を打って加わろうとするのだから。むしろ利己的構成員が自分にとって都合のいいグループへ乗り換えた、と考える方が辻褄が合う。
 文化的進化の分野においてバンドワゴン効果が存在するのなら、それを説明するためのメタエトニー辺境論以外の理論を編み出す必要がある。Turchinは自分では「主な仕事は理論を叩き潰すことにあり、理論を増やしてはいない」と述べているし、実際のところ辺境から新しい文明が生まれるという説は昔からよく言われていたものだ。できればTurchinにはバンドワゴン効果をモデル化し、それがどこまで歴史的なデータと整合するかについても調べてもらいたいと思う。

 Turchin個人がマルチレベル選択を評価したがる本当の理由は本人でないと分からないだろうが、こちらのblogでも指摘されている通り、世間一般でこの議論が好まれているのは事実だろう。自分は道徳的であると思われたいという感情は広く存在する。その理由は、まさにマルチレベル選択を支持すること自体が「利他的な個人」というシグナルの発信に使われているからだと思う。
 生物個体にとって利他的に見えなくもない行動は、遺伝子の観点から見れば実は利己的であることが分かっている。まさに言葉本来の意味での「情けは人の為ならず」である。だが利他的に見える行動が最終的に自分の利益につながるためには、「私は利他的である」というアピールがきちんと周囲に伝わらなければならないケースも多い。特に人間社会ではそうだろう。それだけに「利他的に見えるが実は利己的な行動」であることが世間一般に見透かされてしまえば、その効果が失われてしまいかねない。
 ドーキンスが利己的な遺伝子を発表した際に一般人を含む多くの人から批判を浴びたのは、彼ら彼女らの「せっかく自分が犠牲を払ってまで利他的に見せるシグナルを送ろうとしているのに、その努力に水をかけるような真似をしやがって」という憤りの結果ではなかろうか。今もってマルチレベル選択が一般向け媒体で人気を博しているのも、そうしなければシグナルとしての効果が薄れてしまうと恐れる人が一定数いるからだと思う。
 利己的遺伝子仮説は、いわば「王様は裸だ」と叫ぶ子供のようなものである。だが困ったことに、この場合の王様は少数の個人ではなく、ほぼ全ての人間、というかほぼ全ての生物を意味する。裸だと言われても気づかないふりをしてパレードを続けなければならないのは、実は我々全員なのではなかろうか。
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