火薬と歴史データ 4

 Seshatで見る火薬の伝播史最終回。まずはサブサハラ・アフリカの続きでガーナ沿岸を見てみよう。こちらは1700年以降に手持ち火器がpresent、「実在」となる一方、火薬攻城兵器は18世紀以降になってもinferred absent、「不在と推測」になっている。この地域には既に15世紀末に火薬兵器を抱えたポルトガル人が進出していたことを踏まえるなら、このデータについてはいささか驚きを覚えるところだろう。
 実際、ガーナにほど近いベナンにおいて16世紀初頭には既に火薬兵器が使われていたとの指摘も存在する。Warfare in Atlantic Africa, 1500-1800によると、既に1515年頃にはおそらく銃を持ったポルトガル兵がこの地で傭兵として戦っており、1516年にはベナンの王が自ら使用するためにポルトガルのボンバルドを奪ったという話が載っている(p81)。THE MILITARY SYSTEM OF BENIN KINGDOM, c.1440-1897にも、やはり1515-16年に火器の使用が「戦争の結果に決定的な影響を及ぼした」(p87)と書かれている。
 だがこれはかなり例外的な出来事だったようだ。同じ文章の中には「15世紀から16世紀の間、ベナンは火器の支援なしで領土を拡大した」(p114)、「この時期の兵器と戦いのやり方は、欧州の火器が導入されたにもかかわらず、変わったようには見えなかった」(p115)とある。ベナンにとって火薬兵器の実在が大きなアドバンテージになったのは、むしろ17世紀に入ってからのようだ(p131)。Technology and European Overseas Enterpriseによると、ポルトガルは公式には非キリスト教国には銃を売らないとしていたが、実際は彼ら自身が火器の供給をフランドルやドイツに依存していたため、供給できる限界があったそうだ。こちらの本では16世紀と17世紀初頭のベナン軍の活動は「火器の使用には何ら頼っていなかった」と結論づけている。
 どうやらここでもSeshatのデータは、火薬兵器が既に実在していたかどうかではなく、それがどの程度広く使用されていたかを基準に記されているように見える。それはそれで一つの見方だと思うが、問題は全部のデータでその認識が貫徹されているかどうかだろう。残念ながらインドの大砲の例日本の霹靂火毬など、広く使われていたかどうかではなく、そういう史料の有無だけで判断していると思われる例もある。このあたりはSeshatの問題点だろう。

 Seshatではユーラシアとアフリカ以外にも南北アメリカ及びオセアニアのいくつかの地域を対象にデータをまとめている。まず北アメリカではメキシコのオアハカ峡谷があるが、こちらは西欧人が到着する前はシンプルに火薬攻城兵器も手持ち火器もabsent、「不在」となっており、逆にスペインが植民地帝国を築き上げた後はどちらもpresent、「実在」となっている。きわめて分かりやすい。
 同じことはインカ帝国があった南米のクスコにも言える。即ちインカ帝国時代はどちらも「不在」であり、インカが滅んでスペインの植民地帝国になった後はどちらも「実在」となる。エクメーネには入らないこれらの地域は、エクメーネの一部地域より早く、16世紀の前半のうちに火薬兵器を使うようになっていたわけだ。
 一方、エクアドルのヒバロ族が住む地域については、スペインの植民地化が進んだ後もしばらく火薬攻城兵器は不在、手持ち火器はinferred absent、「不在と推測」になっている。19世紀の途中から後者については「実在」の評価にシフトしており、これらのデータもやはり「この地域でどれだけ火薬兵器が一般的に使われていたのか」を基準に選んでいるように見える。
 米ニューヨーク州北西部のフィンガーレイクスも同様だ。旧世界との接触後もしばらく火薬攻城兵器については「不在」のまま。一方で手持ち火器は1641年から「実在」扱いだ。この頃からモヒカン族などが英国やオランダから火器を大量に手に入れるようになったという。
 南北アメリカで最も問題含みなのはカホキアのデータだ。15世紀から17世紀前半まで続いたオネオタに関する記述を見ると、「不在」となっている火薬攻城兵器はともかく、手持ち火器が1500年からいきなり「実在」となっている。論拠はイリノイ博物館のサイトにある「既に欧州人と接触している現地住民との交易を通じておそらく銃を手に入れいていた」という文章なのだが、この文章にはいつそれを手に入れたかという年代は書かれていない。なぜこれが1500年の「実在」の証拠になるのか、意味が分からない。
 17世紀半ば以降になると、フィンガーレイクスと同様に手持ち火器が「実在」になるのはまだ納得できる。また火薬攻城兵器が「不在と推測」なのもいいだろう。カホキアの事例を見ても、やはりSeshatのデータの質はかなり場所によって格差が大きいように思われる。質の高い調査に基づくものと、かなり危ういものの両方が混ざっている。

 残るオセアニア地域だが、ハワイ諸島のように18世紀後半になってようやく西欧との本格的な接触が始まった地域の場合は、当然ながらその時期に火薬兵器が入ってくる。ハワイ王国ジェームズ・クックとの接触後に火薬攻城兵器、手持ち火器のどちらもpresent、「実在」にシフトする。
 チューク諸島(かつてのトラック諸島)は16世紀からスペインが植民地化していたが、18世紀後半になっても火薬兵器はabsent、「不在」のままだった。19世紀後半になってようやく手持ち火器が「実在」となるが、20世紀初頭のドイツが支配していた時期に住民の武装解除が行われたそうで、それ以降は再び手持ち火器が「不在」となっている。刀狩りのような行動によって火器が「不在」になったという意味ではなかなか珍しい事例と言えよう。
 パプアニューギニアのオロ州だが、これらの地域は16世紀に西欧人と接触はしていたものの、その実情はほとんど知られることがなかったようだ。この島の植民地化が進んだのはようやく19世紀も終わりに近づいた頃で当然ながらそれ以前においては火薬兵器は「不在」だった。植民地化が始まった後も火薬攻城兵器は「不在」のままで、手持ち火器も「不在」「実在」の両論併記となっている。本格的な銃の導入が始まったのは第二次大戦後だ、という史料もあるらしい。

 Seshatのデータは極めて幅広い分野について、幅広い地域と幅広い時間にわたってカバーしているのが特徴だ。それ自体はとても野心的な試みであり評価はするが、一方でどうしても個々のデータの精度や粒度といったものにばらつきが発生するのはおそらく避けられない。今回調べてみたのはあくまで火薬兵器に関するデータだけだが、飛び道具だけを見ても他に投げ槍、投槍器、スリング、単弓、複合弓、弩、張力攻城兵器、スリング攻城兵器などの名前が並んでいる。これらの兵器全てについて特定の時代にどの程度使われていたかを、きちんと史料を示しながら調べるのはとてつもない労力が必要だろう。
 また個別にはおかしな事例があったとはいえ、特に欧州近辺や中国における記述は決して的外れではなかった。全体の大きな流れを知るという意味では、Seshatのデータを使って火薬兵器の伝播を調べるという方法は決してそう悪いものではない。
 ただ、やはり必要なのは火薬兵器が「最初に登場した時期」と「広く使われるようになった時期」との判別だろう。できれば後者の場合、「広く使われる」ことを示すいくつかの基準を提示し、それに合わせて客観的に伝播時期を定められればベストだ。もちろん実際にはそこまでデータがそろっている歴史的事象は決して多くはないはずだし、そろっているとしてもまとめるのはかなり大変だろう。どちらかと言えば私の希望はないものねだりに近いと思う。
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