続々々・カール大公の(略) その2

 前回、カール大公の行動についてグーヴィオン=サン=シールが「モローの性格を読みきったもの」と記していることを指摘したが、実は同じようなことをスールトも言っている。

「この戦い[ネレスハイム]に続き、大公は大胆な策を採った。彼はドナルヴェルトでドナウ河を渡ったが、しかしそれはモローが彼らの後を追うと先を見通していたためであり、実際にそうなった」
Memoires du marechal-general Soult, Premier Partie"http://books.google.com/books?id=_UMuAAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=editions:0TuKck3mujWhdg9_VMk" p307

 スールトもサン=シールもカール大公が全てを読んでドナウを渡河したという考えであり、彼らの見方に従うなら大公が2回目の渡河を行ったのは不思議でも何でもないことになる。モローは間違いなく連合軍についてドナウ右岸へ移る。それを前提としてカール大公は8月17日にインゴルシュタットでドナウ右岸から左岸へ再渡河し、ヴァルテンスレーベンと協力してモローと合流できなかったジュールダンを叩iいた。似たような指摘はグレアムも行っている。

「この時期[ドナウ左岸へ渡った13日]、後に輝かしい成功を生み出すことになる大胆な計画をカール公は思いついた」
Thomas Graham "A Contemporary Account of the 1796 Campaign in Germany and Italy" p20

 彼ら3人はいずれも1回目の渡河時点では、既に2回目を含めた行動計画が出来上がっていたと見ている。これに対してカール大公は、自身が心に抱いていた計画があったと書いている点では彼らと同じだが、それを可能にする状況の変化が生じたことも記している。

「ドナウ左岸[右岸の誤りか]に渡るに際し、大公はヴァルテンスレーベンと再合流する意図を断念してはいなかった。モローがネレスハイムの戦場に逗留したことと、ジュールダンがペグニッツの谷間を行軍したことは、再び2つのフランス軍を分断しようとする彼の計画実行に好都合だった」
Archduke Charles von Hapsburg "Archduke Charles' 1796 Campaign in Germany" p102

 以上のような、基本方針は1回目の渡河以前からありそれに従って2回目の渡河が行われたという説に異論を述べているのが、フランス軍側の他の関係者。カール大公の行動は計画に則ったものではなく、状況の変化に合わせて機会主義的に動いた結果に過ぎないと指摘している代表例がナポレオンだ。

「しかし彼[モロー]はサンブル=エ=ムーズ軍との合流を試みるために騎兵部隊をアルトミュールへ送り出すことすらせず、ホッホシュテットへと後退した。この躊躇と誤った機動が大公を勇気づけた。彼はほぼ不可能だと絶望していた2つの軍の合流をまだ阻止できるに違いないと見た」
Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. III"http://books.google.com/books?id=JW0uAAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=editions:0w0dr17Yp8-skU" p296-297

 モローがドナウ渡河点を探して橋が破壊されていたドナウヴェルトから西方へ下がっていき、結果としてジュールダンの軍から遠ざかっていったことがカール大公の再渡河につながったとの見方だ。同じ事をジュールダンも記している。

「ラン=エ=モーゼル軍はヴェルニッツへ前進した。しかしドナルヴェルトの橋が既に焼かれていたため、モローは既に述べた通り、ヘーヒシュテットとディリンゲンで渡河すべく後方への移動を行った。大公は有利な局面を部下と合流するために活用した」
Jean-Baptiste Jourdan "Memoirs to Serve the History of the 1796 Campaign in Germany" p42

 もちろんここでも問題にしているのは事実ではなく意図であり、その意味ではカール大公の説明が一番蓋然性が高い。ただ、一方でこれまた前にも書いた通り、当事者はウソをついたり、勘違い、記憶違いをする可能性がある。
 それを調べるためには、カール大公の回想録ではなく、彼が実際に出した命令を調べてそこから当時の彼の意図を読み取る必要があるだろう。ただ、残念ながらカール大公の回想録には命令文が付属していない(ジュールダンやサン=シールの本にはそれが付いている)。ナポレオンやウェリントンの書簡はそれだけで本になっているが、カール大公の1796年戦役に関する命令文が入手しやすい形で出版されている可能性は極めて低い。現時点ではそうしたあるかどうか分からない本を必死に探すか、さもなくば現地に行ってアーカイヴを調べるしか手はないようだ。今の私にはほぼ不可能である。

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