火薬兵器が中国で生まれ 、それから
西欧に飛び火し 、そのうえで
中国 と
西欧 から周辺地域へと広がっていったのではないか、という話はこれまでも述べてきた。少なくとも
Chaseのいうエクメーネ についてはそういう流れで大体説明できる。それ以外の地域(サブサハラ・アフリカ、南北アメリカ、オセアニア)は欧州との接触時が火薬兵器の伝わった時期だと考えて大きな違いはないだろう。
この想定が間違いないかどうか、
Seshatのデータ を使うことである程度は確認できる。世界30ヶ所+αの地域についてまとめているこれらの歴史データの中には、軍事技術という項目もある。具体的にはProjectiles(飛び道具)の中にあるGunpowder siege artilleryとHandheld firearmsという2種類の武器について、いつ頃からその地域で使われていたかがデータ化されている。これを使って確認できるわけだ。
例えば中国の
黄河中流域 を見ると、
初唐 の時期はどちらもabsent、つまり不在となっているが、
晩唐 になると前者についてinferred present、つまり実在が推定されるとなっている。紹介されているのは「飛火」に関する記述の存在だ。個人的に
これを火薬兵器と見なすのは証拠として弱い と思うが、一つの論拠ではある。
これが
北宋 になると火薬攻城兵器についてはpresent、つまり実在しているという評価になる。
武經總要 に各種の火薬兵器が出てくるのが論拠だろう。ただし手持ち式火器については引き続きabsentとなっている。この時に使われていたのが
火矢と毬といった兵器 にとどまっていたのが、手持ち火器が不在だと評価された理由だろう。
金 の時代になると手持ち式火器についてはabsent; presentという両論併記となる。銃砲の祖先にあたる火槍は既にこの時代に生まれているが、これを火器に分類していいかどうかで迷ったのかもしれない。またこの時代には火薬攻城兵器がsuspected unknown、疑わしい未確認という立場に後退している。
金が鐵火炮や震天雷を使っていた ことを踏まえるなら、この記述は疑わしくなる。
最終的に黄河中流域のデータで2種類の火薬兵器のどちらもpresentになるのは
元 の時代だ。確かにこの時期には蒙古襲来で震天雷が使われている一方、銃砲についてはこの時代の元号が記されたものがいくつか発掘されている。というわけで、中国に関しては金における火薬攻城兵器の「疑わしい未確認」という評価を除けば妥当なところだと思われる。
西欧についてはラティウムとパリ盆地の2ヶ所が調査対象になり得る。
盛期中世の教皇領 を見ると、手持ち火器はabsentでいいのだが、火薬攻城兵器は1250年が「疑わしい未確認」、1300年が不在と実在の両論併記になっている。おそらく
ロジャー・ベーコンの火薬に関する言及 が1267年まで遡るため、13世紀中に火薬兵器が存在した可能性をにおわせる必要があると考えたのだと思う。ただ明白な証拠はないため、表現がかなり控えめになったのではなかろうか。
ルネサンス期の教皇領 、つまり14世紀後半になると、どちらもはっきりpresentになっている。
パリ盆地の場合、
ヴァロア朝初期 において、火薬攻城兵器が1380年から、手持ち火器が1350年から存在していたことになっている。前者については
その5年前の時点でカーンにおいて大型の大砲が製造されている ことあたりが論拠だと思うが、後者は少し不明。以前、
こちら で紹介した初期の手持ち火器の歴史を見るなら、1350年頃に存在したのはロスフルトガンのようなもので、手持ち式とは言い難いものだったはず。とはいえ14世紀のうちにこれらの兵器が欧州で出揃ったのは間違いないだろう。
次に欧州に近いところを見ていこう。一つは南西アジアのコンヤ平原。まず
オスマンが帝国になる前の首長国 時代だが、手持ち火器はabsentとしており、火薬攻城兵器は1388年から不在と実在の両論併記となっている。論拠はそこに記されている通り、1388年のKaramania、1389年のKosova、そして1396年のNikopolにおいて使われた可能性がある、という理屈だ。確かにAgostonの本でも、
オスマン側が火薬兵器を使うようになったという記述は14世紀末頃まで下る としており、この記述もそれほど違和感はない。
地中海の南岸ではどうか。上エジプトのデータを見ると、まず
アイユーブ朝 の時点で手持ち火器についてinferred absent、つまり不在と推測されるとの言及がある。おそらく13世紀前半の人物であった
イブン・アル=バイタール が、
中国の雪こと硝石について言及 していたことが背景にあるのだと思われる。とはいえこの時点では原則不在と見ていいのだろう。
結局、エジプトで火薬攻城兵器と手持ち火器という火薬兵器がpresent、実在となるのは
マムルーク朝後期 、即ち15世紀以降になってから、というのがSeshatのデータだ。Ayalonは1360年代(
マムルーク朝中期 )からエジプトに大砲があったと考えているが、Partingtonはこの時代に使われていたのは大砲ではなくナフサを使った火焔兵器の一種だったと見ている(
A History of Greek Fire and Gunpowder , p196-197)。マムルーク朝の中で大規模な火器の製造に取り組んだのは
ガウリー だと言われており、つまり本格的に彼らが火薬兵器を取り入れたのは16世紀初頭まで遅れたことになるようだ。
長くなったので以下次回。
スポンサーサイト
コメント