バウツェン 15

 承前。これまでFoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813に依拠しながら、バウツェンの戦いにおけるネイの行動を追ってきた。それを踏まえた上で最初の疑問、即ち「バウツェンの戦いで決定的な勝利を得られなかったのがネイのせい」という指摘がどの程度妥当であるかについて、現時点での結論を出そう。ネイの責任は、あるとしてもかなり軽い。
 まずこの戦役を通じて常に影を落としているのが、フランス軍の騎兵不足という問題だ。リュッツェンの戦い後もそうだったし、バウツェンも同じだったが、騎兵不足は勝利後にけるフランス軍の追撃能力を奪い、ナポレオンが求めていた「決定的な勝利」を獲得できない大きな要因となった。5月24日に出された大陸軍公報(Correspondance de Napoléon 1er, Tome Vingt-Cinquième, p315-323)の中でも、バウツェン後の追撃で「軍旗を奪うことができなかった」(p232)とある。
 奪われたのは偵察能力も同じだった。バウツェンに敵が集まっているという重要な情報についても、地元住民らの話にかなり頼らざるを得なかった様子は、これまでも伝えてきた。ナポレオンが連合軍の位置について確信を持ち、ネイにバウツェン方面への転進を命じたのは、最初に連合軍がバウツェンへ向かっているとの情報が入った11日から4日も後の15日夜。実際にバウツェンの連合軍について継続的な情報が入るようになったのは、彼らと接触したマクドナルドの報告が届くようになった16日以降であり、いわばナポレオンは霧の中での戦いを強いられていたように見える。
 加えてフランス軍の動きを鈍らせたのが、部隊間の連絡へのダメージだった。半島戦争時がそうであったように、1813年戦役では連合軍側のコサックが常に戦線の背後にもぐりこみ、フランス軍の報連相を邪魔した。ナポレオンは時には迂回ルートで伝令を送り、時には情報が確実に届くよう複数の伝令に同じ命令を託し、あるいは時には解読時間がかかるのを覚悟のうえで命令を暗号文にした。それでも時には命令を運ぶ伝令がコサックに襲撃されることもあり(p279-280)、実際に引き裂かれた暗号文の断片のみが残されている例もある(p242)。
 こうした様々な要因がバウツェンでの決定的勝利を遠ざけたのだが、その遠因はロシア遠征の失敗にある。ナポレオンの無謀な戦争が引き続き彼を祟っていたわけであり、この点についてネイを批判するのはお門違いだろう。

 ネイとナポレオンの間のやり取りを見る限り、ネイはよく皇帝の意図を汲んで別動隊をうまく戦場まで連れてきたと言っていい。そもそも彼は16日夜に初めてバウツェンへ向かうよう指示されたわけだし、17日以降は言われた通りバウツェンに向けて移動を続け、4日で100キロ超の距離を走破している。机上の計算ならもっと早く移動できたと考えることもできるかもしれないが、上記のように味方同士の連絡にすら手間がかかった中では、そう悪い移動速度だとは思わない。
 戦場に近づくにつれて彼の指揮に関して非効率な部分が見られたのはおそらく事実だろうが、その要因の中には彼に課せられた任務が過重であった点も含まれている。そもそも軍団長が5個師団を一括して指揮すること自体、ナポレオン戦争期ではあまり見られない事象であり、加えて彼は他の軍団についての指揮も任されていた。ナポレオンは秋季戦役でも同じ負荷をウディノに課して失敗しており、その後になってようやく複数の軍団を指揮する指揮官を積極的に置くようになっている。1人の人間に処理できる仕事の分量を考え、負荷を減らすことで仕事の質を上げるといった発想が、この時点のナポレオンにどの程度あったのか疑問を覚える。
 それに、会戦直前の時点においても、また会戦中においても、ナポレオンはネイにほとんど命令を出していない。18日午前10時の命令を出した後は20日午後4時まで彼に命令を出さず、さらに21日午前8時に最後の命令を出した後は、会戦が終わるまで連絡を取っていた様子がない。4日間にたった3つの命令しか送っていないのだ。同期間にネイがナポレオンやベルティエ宛に出した報告が少なくとも8本あったのと比べると、いかにも少ない。もちろんナポレオンはネイ以外の部下たちも相手にしていたわけだが、だとしてもこの連絡の非対称性はかなり目立つ。
 ネイの指揮下にいた軍団のうち、ヴィクトールとセバスティアニが戦いに全く間に合わなかった点についても、彼に非はなく、完全にナポレオンの責任だ。ナポレオンが18日午前10時に命令を出すまで、ヴィクトールらをベルリンに向かわせるつもりだったことが、彼らの移動が遅れた最大の要因。しかもバウツェンに向かわせたこれらの兵のうち、実際に戦闘に間に合ったのはレイニエ軍団だけであり、それも戦闘の最後の最後にようやく参加できたというレベルだ。むしろ彼らについては、どうせ間に合わないのだから引き続きベルリンに向かわせた方がよかったのではないか、と思いたくなるレベルである。

 そして、そうした一連の問題が生じたそもそもの原因が、リュッツェンの戦い後におけるフランス軍の展開そのものにあった点を見逃すべきではないだろう。要するにナポレオンが、リュッツェンの戦い後に軍をほぼ2等分し、それぞれ東と北東に分けて進ませたのが、バウツェンに十分な兵力を集めきれなかった根本的な原因である。部隊が2つに分かれていたから、合流に手間がかかった。部隊が2つに分かれていたから、報連相に時間がかかり隙間にコサックが潜り込む余地が生まれた。
 ナポレオンがぎりぎりまで自ら最前線に出ようとせず、ドレスデンにとどまっていたのも、要はこの2つの分かれた部隊と効率よく連絡を取るためだったと考えられる。交通の要衝にあたるドレスデンにいた方が、東と北東の両方から情報をもらい、命令を発するのに効率が良かったのだろう。もし彼が早い段階でバウツェンに来ていたとしたら、そこからネイへと連絡を取るのがかなり難しくなっていたのではなかろうか。自分が兵を分けてしまったために、いつまでも最前線に出られないという問題が生じた。
 最前線で指揮を執らないことがどういう問題を引き起こすかについて、以前ピシュグリュの事例を紹介した。ナポレオンは最終的にはバウツェンに自ら現れているためピシュグリュと同じとまでは言えないが、それでも情報を把握するのに時間を要し、連合軍側に準備の時間を与える余地を残したことは否定できない。
 なぜナポレオンは兵力をほぼ均等に分けたのか。リュッツェン後の5月4日にナポレオンがネイに出した命令(p18)を見ると、トルガウにいるザクセン軍とレイニエ軍団を合流させるという目的に加え、「即座にベルリンへ向かう」ことも選択肢に入っていることが分かる。同日の別の命令(p24-25)でも内容は同じだ。6日のネイへの命令(p60)や、10日のベルティエへの命令(p120)でもベルリンに言及している。また、当初はネイ、レイニエ、ヴィクトール、セバスティアニを左翼に展開していたナポレオンだが、10日にはマイセンにいたレイニエも彼らに近づけるよう指示している。
 全軍の半数近くを左翼に展開するに際し、ナポレオンの脳裏にベルリンの名前が存在していたのはおそらく間違いないだろう。自身はドレスデンへ向かっているので、この方面に対する配慮もしていなかったわけではないが、彼がベルリンをかなり重視していた様子は窺える。
 ナポレオンの関与した戦争において、首都陥落で戦争が終わった事例は存在しない。ピエモンテは首都が落ちる前に休戦を申し出てきたが、1805年と1809年のオーストリア、1806年のプロイセン、1808年のポルトガル、スペイン、そして1812年のロシアと、どの国も首都を落とされた後も戦闘を継続した。そう考えるとナポレオンが、特に後期の戦役に置いて、敵主力より首都を重視するような動きを何度も見せたことには違和感を覚える人もいるだろう。なぜ彼は戦争終結につながらない首都占拠にこだわったのかと。
 1813年戦役においてもナポレオンはくり返しベルリンを占拠しようとする動きを見せている。バウツェン前の動きもそうだし、秋季戦役でも2回にわたってベルリンへの前進を部下に命じ、2度とも撃退されている。過去に効果がなかった戦略目標にここまで執着するのは、ある意味で興味深い。もしかしたらナポレオンは自分の国、つまりフランスにおけるパリの重要性をそのまま他国に敷衍していたのかもしれない。
 連合国と異なり、パリが占拠されたフランスは早々に敵に膝を屈している(1814年)。まだ手元に軍が残っていたにもかかわらず、パリを失ったナポレオンは結局退位を強いられた。確かにフランスを落とすうえでパリ占拠は効果的だったのだ。自国がそうなのだから他国もそうに違いないと、ナポレオンはそう考えたのかもしれない。バウツェンの失敗はネイよりも、ナポレオンのそうした思い込みが大きな要因になっていたように思われる。
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