バウツェン 14

 承前。FoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813によると21日、ローリストンもバウツェンの戦いに関する報告を出した(p331-334)。同日午前4時、メゾン師団とともにクリックスを出発した彼は、第3軍団のスーアン師団が野営する地域の真ん中を通って移動した。前方のザルガ村とその背後にはコサック及び前進してくる騎兵と歩兵の縦隊がおり、彼らはローリストンを発見するや否や足を止めて峡谷の背後で戦闘を始めた。ローリストンは第1旅団及び軽騎兵1個旅団に隊列を組ませ、連合軍はクリックス村の出口にある橋へ大砲6門で砲撃を始めた。
 ローリストンへの命令はネイの左翼を形成してゴッタメルデを経てバルートへ向かうというものだったが、クリックス村を通る地域には第3軍団の野営地があったため道が塞がれている状態だった。彼はメゾン師団の第2旅団をクリックスの背後に布陣させ、残る2個師団についてはライヒナム(シュプレーヴィーゼ)の出口へと向かわせ、そこからブレーザ経由でゴッタメルデへ向かおうとした。フランス軍の前進を敵に側面から脅かされないためにこの機動は必要であり、まずレーミシャウを経て敵を迂回し、ブレーザの背後へと後退させたと彼は説明している。
 連合軍が火をつけたブレーザが炎上しているこのタイミングで、ネイが改めてバルートへ向かうよう命令を送ってきた。ローリストンは第3軍団の真ん中にいるメゾン師団を向かわせようとしたがネイがこの部隊を手元に置きたがったため、ローリストンはこの師団抜きで戦うことになった。彼はこの日以前もいくつもの分遣隊を背後に残していたため、手元に残っていたのはラグランジュ師団の10個大隊と、ロシャンボー師団の6個大隊(この日の終わりには8個大隊まで増加)だけだったという。
 第3軍団によるグライナ攻撃が行われている時、彼はレーミシャウに置いていた兵をブレーザとゴッタメルデ方面へ進ませた。彼らは敵をレーバウアー川の背後へ追い払ったが、敵は遠方から砲撃をしてきたとともに、ゴッタメルデにも火を放ってそこにある石造りの橋を渡らせまいとした。しかしローリストンは炎上するゴッタメルデを通り抜ける道を見つけ、その向こう側に布陣した。敵はバルート村の側面にある極めて高い山地(Foucartによるとバルート北東にあるシャフベルク)に砲列を敷き、6000人ほどの兵を展開していた。
 常にフランス軍の移動を牽制できるこの陣地から彼らを追い払う必要性を感じたローリストンは、他の低い場所から高地の上にある森まで接近できることに気づいた。そこで砲兵を前進させて砲撃したところ、連合軍は数発の弾丸が届いたところですぐこの陣地を去った。フランス軍の追撃を受けた連合軍は、バルート村にも火を放った。
 そこに再びネイから、プライティッツ、クライン=バウツェンなどへ向かうよう命令が届いた。ネイがこの命令を記したのは午前11時半頃だという(p333n)。プライティッツに向かうためには今いる陣地を撤収しなければならず、そうなると側面を脅かされると考えたローリストンは、ロシャンボー師団を残し、ラグランジュ師団とともにブッフヴァルデを経てプライティッツに向かった。プライティッツはフランス軍の手で落とされ、ネイは今度はクライン=バウツェンをすぐ攻撃するよう命じてきた。
 ローリストンは第3軍団の左翼を攻撃しようとした敵騎兵を撃退しながら前進した。連合軍は30門の大砲で攻撃を試み、ローリストンはラグランジュ師団の22門の大砲でこれに対抗した。ローリストンの左翼が空いているのを見た連合軍はそちらに回り込もうとしたため、彼はそちらに兵を配置するとともに、ロシャンボーに前進して敵を脅かすよう命令を送った。計画が邪魔されたことに気づいた連合軍はヴルシェンへと後退した。
 フリードリヒの時代の堡塁跡がいまだ残るヴルシェン正面の高地に向けてローリストンは前進した。連合軍はそことカンネヴィッツ村に大砲を配置し、抵抗した。ここでようやく第7軍団とパクト師団(ピュトーの間違い)がローリストンに合流し、彼は38門の大砲で敵に対抗した。さらにローリストンは第134及び第154連隊をカンネヴィッツ村から高地へと前進させ、ピュトー師団にはそこを迂回させるように、また第7軍団には主要街道沿いにヴルシェンへと進ませた。「皇帝万歳」の声とともに前進してくるフランス軍に対し、連合軍は陣地を捨てて後退した。ローリストンはヴルシェンの先まで敵を追撃し、そこで日没を迎えたという。
 途中からローリストンと別行動を取ったメゾン将軍の報告(p334-335)も、ローリストンの報告に同封されている。クリックス村を越えた彼らの先鋒はザルガ村に到達していたが、後続部隊はまだシュプレー河の背後にいた。彼らは他にも橋を架け、河を渡ってマルシュヴィッツ村(クリックスの南方)も奪った。砲兵はこの村の前方に配置され、クライン=バウツェン正面の陣地(トイフェルスシュタインか?)を占める敵との戦闘に入った。
 第151連隊はプリスコヴィッツ[プリースコヴィッツ]村を奪い、その後で敵の3回にわたる攻撃からそこを守った。同連隊や砲兵はその過程で大きな損害を被った。第153連隊は敵が第151連隊を攻撃している際に敵との戦いに向かった。またこの村にはベルトランの第4軍団に所属する2個大隊もやって来たそうで、ここでフランス軍主力とネイの部隊との合流が成し遂げられたことになる。
 第5軍団の損害についてはp335の脚注に表が載っている。死者数は歩兵が45人(うち士官は1人)、軽騎兵が6人。負傷者は歩兵が179人(うち士官10人)、騎兵が26人で、馬匹は計82頭が失われている。特に損害が大きかったのは第16師団(メゾン)と第18師団(ラグランジュ)で、逆にいうと彼ら以外に歩兵で損害を計上している師団はいない。

 第3軍団と第5軍団以外に戦場までたどり着けたのは、レイニエの第7軍団だった。同軍団の作戦日誌(p335-336)によると、彼らは夜明けにホイヤースヴァーダ正面の宿営地を出発。午後2時前後にクリックスを通過し、グライナの風車に布陣した。午後5時にはプライティッツ村を通過してヴルシェンにいる敵を攻撃し、ネヒャーンまで敵を追撃したうえで午後10時にこの村に布陣したという。
 バウツェンに全く到着できなかったのはヴィクトールとセバスティアニだ。ヴィクトールはこの日、ヴィティヒェナウからベルティエに向けて報告を送っている(p336)。それによると第2軍団の第1及び第4師団、そしてセバスティアニの騎兵部隊はこの日、ヴィティヒェナウ正面、ヴァイシヒ方面で宿営した。ヴィクトールによると翌22日に歩兵はグライナに、騎兵はバルートに到着できる見通しだったそうで、つまり彼らは実際の戦場から丸1日行程遠い場所にいたことになる。

 Foucartはローリストンの報告をもとに、ネイの指揮に関する問題点を指摘している。当初はクリックスから出撃しようとしたローリストンが、この方面からうまく進むことができず、ライヒナム経由へと道筋を変えることになったのは、渡河点に関する何らかの誤解が原因だったと思われる。20日にローリストンの出発時刻が午後2時まで遅れたことも、ネイとローリストンの間に命令がうまく伝わっていなかった一例と考えられるわけで、ネイとローリストンのどちらが原因かは分からないが、その指揮がうまくいっていなかったことは確かだろう(p331n)。ネイはさらにローリストンからメゾン師団の指揮権を奪い、加えてピュトー師団についても最終局面に至るまでは自分から命令を出していた(p332n)。
 前回のネイの報告に関する彼の批判を見ても分かるが、Foucartはこの戦いにおけるネイの指揮について低い評価をしている。ネイの配下にいた軍勢はかなり多く、それらを上手く活用していればもっと大きな戦果が挙げられたのではないかと彼は考えているようだ。
 だがネイへの擁護もできないわけではない。そもそも彼自身が第3軍団を指揮すると同時に、フランス軍左翼全体の士気も任せられていた。第3軍団は5個師団というかなり多くの師団で編成されていたうえに、ローリストン、レイニエ、ヴィクトールらに対する命令もネイを通じて出されていたわけで、つまり彼は同時に8つの部隊を操って成果を出すよう求められていたわけである。前に書いた通り、バウツェンの戦い当日にナポレオンはベルトランとラトゥール=モーブールの2つの部隊をまとめて指揮するためにスールトを送り出している。それより多くの部隊をネイに任せっきりにしていたのに比べると、えらい違いだ。
 ネイに瑕疵がなかったというつもりはないが、Foucartの指摘は彼に対して少し厳しすぎるのではなかろうか。ネイに負担をかけすぎたという点では、遠因はナポレオンにあるとも考えられる。以下次回。
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