続々々・カール大公のドナウ渡河

 カール大公が1796年戦役でドナウ河を渡ったのは2回。ネレスハイムでモローに敗北した後の8月13日にドナルヴェルトでドナウ左岸から右岸へ渡り(Archduke Charles von Hapsburg "Archduke Charles' 1796 Campaign in Germany" p98)、その4日後の17日にジュールダンを攻撃すべくインゴルシュタットでドナウ右岸から左岸へ渡河した(Charles "Archduke Charles' 1796 Campaign in Germany" p103)。彼がこうした行動を取ったという事実関係には問題ない。
 問題になるのは、彼がこのような行動を取った理由だ。いったいどんな意図で彼は短期間のうちに2回もドナウ河を渡ったのか。

 当事者であるカール大公や、彼と同じ側(連合軍)に所属していたグレアムの記述はほぼ一致している。彼らは最初の渡河について以下のように説明している。

「[ネレスハイムの戦い前に]ヴァルテンスレーベンは彼[カール大公]に、フランス軍を止めるのは無理で、ボヘミアへ後退する必要性があると警告してきた。大公はまだ後方への移動を始めておらず、もはや彼と合流する時間がないことを恐れていた。というのもこの場合、ドナウ左岸をノイブルクかインゴルシュタットの橋へ行軍するのはあまりにも運頼りだからだ。かくして彼は可能な限りドナウを早く渡り、もはやその行軍を障碍とは見ていないサンブル=エ=ムーズ軍に対峙するか、あるいはヴァルテンスレーベンがナープ川の戦線を捨てていなければインゴルシュタットかレーゲンスブルクで彼との合流を達成することを決意した」
Charles "Archduke Charles' 1796 Campaign in Germany" p95

「[ネレスハイムの戦い中に]大公が失った地を取り返す目的で右翼を増援するのに忙殺されていた時、ペグニッツの陣地を捨ててアンベルクへ退却することを強いられていることを暗示するヴァルテンスレーベン将軍の報告を受けた。ジュールダンの軍の右翼は9日にはニュルンベルクに到着し、モローの軍に一段と近づいている。この動きは、フランス軍が迂回してフォン=ヴァルテンスレーベン将軍から切り離そうとしているオーストリア軍右翼を切迫した危機に晒しており、大公は[ネレスハイムの戦いに]勝利しようと敗北しようと、どちらの場合にせよドナウの川岸とドナルヴェルトまで後退することを強いられるに違いなかった。そこで彼は今や無意味になった会戦を終わらせることを決断した」
Thomas Graham "A Contemporary Account of the 1796 Campaign in Germany and Italy" p19

 情報を得たタイミングが異なるし、グレアムはドナウの右岸ではなく「川岸」への後退を決断したと書いているが、要するにジュールダンと対峙していたヴァルテンスレーベンの退却が原因であるという点は同じだ。ネレスハイムでの勝敗とは無関係に、カール大公のドナルヴェルトへ(さらにその対岸へ)の後退は決まっていた、というのが連合軍側関係者の言い分だ。
 これに真っ向から反対の意見を述べているのがナポレオンである。

「彼[モロー]は勝利を得た。サンブル=エ=ムーズ軍は既にレードニッツ川を渡り、アンベルクからラティスボンへ行軍を振り向けるように見えた。彼らはカール公より数日先行しており、そのカールは11日の交戦でフランス軍を屈服して彼らをアルプ山地の隘路へ追い払うことができず、今や包囲されるのを避けるために一時も無駄にすることができなくなっていた。既に2つの軍の合流は成し遂げられたと考えた彼は夜の間に退却し、合流に抵抗するあらゆる考えを捨てた。というのも彼はフランス軍にドナウ河左岸とヴァルニッツ、そしてアルトミュールを明け渡し、ドナウとレッヒ川を再渡河したためだ」
Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. III"http://books.google.com/books?id=JW0uAAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=editions:0w0dr17Yp8-skU" p295-296

 ネレスハイムの敗北によってカール大公はジュールダンとモローの軍の合流を防ぐという作戦を諦めた。彼がドナウ右岸へ退却したのがその証拠だ。ナポレオンはそのように主張している。確かに、あくまでジュールダンとモローの合流を妨げようとするのなら、ドナウ右岸に下がるのは拙い。グーヴィオン=サン=シールが言う通り「ネレスハイムの戦い後に、この時点ではニュルンベルクにいたジュールダンの右翼へ[ドナウ左岸を]直接移動した方が、距離も短く作戦も単純ですぐ終わるものだったように見える。これなら、戦役における作戦が基盤を置いていた2つの軍の中間位置を離れることもない」(Memoires sur les campagnes des Armees du Rhin et de Rhin-et-Moselle, Tome Troisieme"http://books.google.com/books?id=tG0uAAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=editions:0QyM2Kd0ZHv7LL3EuWK" p185n)。
 そのサン=シール自身はもっと奇抜な意見を述べている。

「いつものように手慣れた大公は、彼の移動を追跡する敵の動きを見て、ドナウの背後に退くふりをして敵をそこにひきつけ、彼の計画実行により有利な機会を見出そうとした」
Memoires sur les campagnes des Armees du Rhin et de Rhin-et-Moselle, Tome Troisieme, p185

「この公子はモローの性格に関して得た知識を利用して彼をドナウ右岸へ引き寄せ、いつもサンブル=エ=ムーズ軍から遠ざけるという手腕を見せた。この作戦[ドナウ右岸への移動]は、それ自体は失敗だが、この状況では優れた戦略だった」
Memoires sur les campagnes des Armees du Rhin et de Rhin-et-Moselle, Tome Troisieme, p185n

 カール大公はドナウ左岸を経由してヴァルテンスレーベンとの合流を図ると「モローをジュールダンに近づける方角へ引き寄せることになり、疑いなく大公が避けようとしていること[フランス側の2軍の合流]を明らかにしてしまう」(Memoires sur les campagnes des Armees du Rhin et de Rhin-et-Moselle, Tome Troisieme, p185n)のを懸念した。そして、彼は自分が熟視しているモローの性格に基づき、彼をドナウ右岸へおびき寄せるためにこのような行動を取った。そうサン=シールは説明している。
 以上の説明のうち、最も分かりやすいのはナポレオンによるものだ。ネレスハイムの敗北でフランス軍の合流阻止が不可能になったためドナウ右岸へ渡り、橋を壊した。ごく自然に理解できる行動である。逆に最もありえそうにないと思えるのがサン=シールの説明。まるでカール大公が未来を知っていて行動していたかのような展開だが、いくら何でもそこまでモローの行動を読めるものだろうか。読心術と未来予知の能力でも持っていない限り、モローをドナウ右岸へ引きつけるために渡河したなどとは考えられないのでは。
 もちろん、ここで問題になっているのは事実ではなく当事者の「意図」なので、最も信頼できるのは当人であるカール大公の説明になる。本人がそう言っている、という以上の強力な説明はない。ただし、こういう話では本人がウソをついたり、記憶違いや勘違いをする可能性もある。

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