報告を受けたナポレオンはベルティエを通じ、21日午前8時にネイに向けた命令を出している(p315)。敵がいるであろう場所についてネイの幕僚に伝えたと書いたうえで、ネイが午前11時にはプライティッツにいることが皇帝の意図であると指摘。その時点でネイが敵最右翼に位置取ることになるため、ネイの交戦を見たうえで主力が全地点を攻撃すると述べている。またネイの攻撃で敵が陣地を捨てるのなら、ローリストンをネイの左翼へ行軍させ敵を迂回することも求めている。
前回、ヴァイセンベルクへ向かえとの20日午後4時の命令を受けたネイが、南方での戦闘の音を聞いたうえで、新たな命令が来るまで前進は控えると回答していたことを紹介している。そして実際、皇帝から来た新たな命令は、東南のヴァイセンベルクへ向かうのではなく、ドレーザのほぼ真南にあるプライティッツを目的地としたものだった。ネイはナポレオンの意図をよく読んでいたと言える。
なおベルティエはスールトにも命令を送り、ベルトラン軍団の3個師団でネイとマルモンの間を行軍し、敵を攻撃するよう求めている(p315-316)。これらの命令は戦場で慌てて書かれたものらしく、文字が通常の書記に書かせたものではなく、士官が記したものだという。そしてFoucartによると、この21日朝の命令を最後に、ナポレオンは戦いが終わるまで、ネイともスールトとも、それ以上の連絡は取らなくなった(p316)。ナポレオンは遠方から聞こえる砲声をもとに判断を下しながら、司令部の近くに展開しているマルモンの部隊などに命令を下すにとどめたという。
この日、ネイはどのように行動したのか。同日夜11時に記した皇帝への報告書がそのあたりを詳細に述べている(p328-330)。
「新たな命令を受け取るまでヴァイセンベルクには向かわない」と午前4時半の報告で記していたネイだったが、途中までは進むつもりだったようだ。彼は午前5時に第5軍団とケレルマンをクリックスからドレーザ、ゴッタメルデ経由でバルートへと出発させ、スーアン師団とデルマ師団にこの動きを支援させた。ネイの右手に間違って展開していた第5軍団のメゾン師団に対しては、右側面をカバーすべくザルガとマルシュヴィッツ間にとどまらせた。
連合軍はしかしグライナの西方にある風車の丘に15門から20門の重砲を配置してネイの移動を妨げた。ようやく午前9時半になってケレルマンの前衛部隊とスーアン師団がザルガ村から出撃し、小川を渡って前進を開始。丘と向かい合う森に隠れながら隊列を組んだ。ローリストンがゴッタメルデ(グッタウ)方面へ向かい始め、またデルマ師団とアルベール師団による攻撃支援が可能になったところで、ネイはケレルマンとスーアンに2個縦隊で丘への攻撃を命じた。2個縦隊は丘を登り、密集縦隊を組んだデルマ師団がそれを支援し、アルベール師団は予備として2列の横隊を組んでいた。激しい砲撃を受けながらもフランス軍は午前10時には丘を奪取した。
同じ時、ネイは午前8時にベルティエが出した「プライティッツへ向かえ」との命令を受け取った。命令通り午前11時にはプライティッツ攻撃を実行すべく、彼は引き続きスーアンとケレルマンの部隊をプライティッツ攻撃の主軸にすることを決めた。マルシャン師団とリカール師団はまだ後方におり、メゾン師団は右翼で敵の砲撃を受けていた。ローリストンは左翼に到着するには遠く離れてしまっていたため、使える兵がそれしかなかったようだ。
実はこの攻撃は、ナポレオンの主力と歩調を合わせることはできなかった。ベルトランによる同じ陣地への正面からの攻撃は3時間後の午後2時になってやっと実行されたし、バロワ将軍によるクレックヴィッツ攻撃は午後1時半に行なわれた。何が起きているかについて戦闘音でしか判断できない状態のまま、ネイはバウツェン正面の動きを想像しながら自分の兵を動かすことを強いられていた(p329n2)。
攻撃は一度は成功した。だが連合軍はクライン=バウツェン高地から多くの戦力を下ろし、砲列を敷いてスーアン師団と前衛部隊を圧倒した。ネイはデルマ師団を縦隊のまま村の右翼に進ませ、さらにリカール師団をその背後に梯形に配置した。しかし敵の全攻撃を引き付けることなく部隊を完全に投入することができないまま、ネイは一時的にプライティッツ撤収を余儀なくされた。彼はローリストンとレイニエに行軍を急ぐよう伝えたが、前者は左側面にある丘の敵に攻撃されており、そこを左翼から迂回し、午後1時半から2時の間に出撃しようと考えていた。
一方レイニエ将軍はクリックスに到着していた。ネイは正面の敵を圧倒して自軍右翼とナポレオンの左翼を連結することが必要だと考えた。これまでの攻撃で困憊していたスーアン師団と前衛部隊の代わりに、彼はデルマ将軍をプライティッツに向かわせ、村を奪ってさらにクライン=バウツェンへと前進するよう命じた。リカール将軍とアルベール将軍は右翼を進んで直接高地を目指す。デルマ師団は村を奪ったが優勢な敵の反撃を受けて後退。そこに到着したアルベール師団が戦況を立て直した。
ローリストン将軍の出撃によって左翼の懸念がなくなったネイは、デルマ、アルベール及びリカール師団と軽騎兵に対し、ドバーシュッツとクライン=バウツェン間の高地(トイフェルスシュタイン)に向けて直接行軍するよう命令した。各縦隊の側面に置かれた12ポンド砲16門が敵の砲撃を沈黙させ、大軍の接近を見た敵はすぐ後退した。時刻は午後4時から5時の間だった。ネイはマルシャン師団、メゾン師団及びレイニエ軍団をすぐこの有利な地点に集めた。かくして戦況は決まった、とネイは記している。
あらゆる方面で敵の退却が始まった。それを邪魔するべくローリストンは常に敵の右翼を脅かしつつヴルシェンに進み、レイニエ軍団とパクト師団(Foucart本のp330にはパクトとあるが、それ以前までの記述を見る限りピュトーの間違いだと思われる)がそれを支援した。ネイはメゾン師団も同じ方面に向かわせ、リカール師団は最初は予備砲兵に、後にはスーアン師団とデルマ師団に支援されながらプルシュヴィッツへ押し出した。
最後の戦いはヴルシェン左翼にある塹壕を掘った丘に敵が残した大きな部隊との間で行われた。レイニエとローリストンはこれらの兵を激しく砲撃し、装備を吹き飛ばしてライヒェンバッハ方面へと逃走させた。味方の損害についてネイは死傷者が4000人は下らないだろうとしている。
同日、ジョミニがクライン=バウツェンの高地からレイニエに宛てて記した手紙も掲載されている(p331)。おそらく午後4時半頃に書かれたこの手紙では、ヴルシェンへ向かって前進しているローリストンと連携するべく左翼へ進み、彼が行う攻撃を支援するよう求めている。またネイが司令部を置くつもりであるクライン=バウツェン方面にレイニエの右翼を配置し続けることも要求しており、戦線に穴をあけないよう注意を払っている。
見ての通り、ナポレオンの命令に従ったネイのプライティッツ村への攻撃は、しかしナポレオンが直率している正面部隊の遅れによって孤立した攻撃となってしまった。それでも彼は2度の攻撃によってプライティッツを奪い、そこからさらにクライン=バウツェンと周辺の高地への攻撃も行って成功させた。連合軍の退却が決まったのは、この高地(トイフェルスシュタイン)の奪取に成功したから、というのがネイの主張だ。
もちろんネイの対応が完全だったとは限らない。少なくともFoucartは、彼のプルシュヴィッツへの攻撃が不十分だったと見ている。リカール師団によるプルシュヴィッツへの攻撃はブリュッヒャーの退却を妨げることはできなかったのだが、その前の段階、クライン=バウツェン付近の高地を奪った段階で、マルシャン師団とレイニエ軍団をこの高地に集めるのではなく、直接プルシュヴィッツへ向かわせていれば、ブリュッヒャーの後退を危険に晒すことができていたというのがFoucartの説だ(p330n5)。
もう一つ、Foucartが批判しているのはネイの部隊にまだ余力が残っていたことだ。彼は予備にマルシャン師団とレイニエ将軍の2個師団、及びローリストンに合流すべく後方から急いでやってきていたピュトー師団の4つを残していたが、彼らは本格的な交戦を行うことなくこの日を終えた。もちろん彼らのうちレイニエ軍団とピュトーの計3個師団はかなりの強行軍で戦場に到達した可能性があるため、本当に投入できたかどうかは判断が難しいが、考慮に値する歴史のIFであることは間違いないだろう。以下次回。
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