続いてナポレオンはスールトに対し、ベルトランとラトゥール=モーブールの部隊をまとめて指揮するよう口頭で命じた(p287)。後にベルティエから文章での命令も出ている(p288)。皇帝の下には、前日のケーニヒスヴァータでの戦闘に関連してベルトランが支援に動かなかったことが伝えられており、ベルトランの指揮にナポレオンが不満を抱いていたと考えられる。実際、6月6日にナポレオンがベルトラン宛てに記した手紙(
Correspondance de Napoléon 1er, Tome Vingt-Cinquième , p363)の中では、19日の彼の行動に満足していないとはっきり言及している。
一方、ネイの司令部ではおそらく19日の遅い時刻に参謀長ジョミニがレイニエ宛の手紙を書いていた(p302-303)。手紙の日付自体は20日になっているが、文章中に「本日中に到着できると期待しているケーニヒスヴァータ」とか、追伸部の「元帥は明日、ドレーベン[ドローベン]を経てライヒナム[シュプレーヴィーゼ]でシュプレー河を渡り、ドレーザへ行軍する」といった部分を見る限り、文章は19日中に書かれたと考える方が辻褄が合う。
ジョミニがこれを記した場所はマウケンドルフで、レイニエに対しては可能な限り迅速に移動を続け、マウケンドルフ経由でケーニヒスヴァータへ来てそこで第3軍団と合流するよう求めている。また19日に行われたヴァイシヒの交戦について触れているほか、作戦線をドレスデン方面に設置するので後方には何も残さないようレイニエに要請している。
20日になると午前10時にネイがケーニヒスヴァータからナポレオン宛の報告を記している(p303)。彼はその中で前日に行なわれたケーニヒスヴァータとヴァイシヒでの戦闘について報告し、この日の朝にはドレーザへ前進していることを述べている。また前日の戦いの音を聞いたベルトランが左翼方面で示威行動を取るとの予想も示し、そのうえで皇帝から新たな命令が来るだろうとの考えも表明している。
この手紙には19日夜10時にローリストンがネイに宛てて記した報告も同封されていた(p303-304)。後にローリストンが記したヴァイシヒの戦闘に関する簡単な紹介だが、敵戦力に関しては「ヨルクの部隊[プロイセン軍]2万2000人」「ロシア軍は1万人近く」、味方の投入した戦力については「1万2000人」となっており、
ベルティエに宛てて書かれた報告 と比べるとコサックへの言及がないだけ敵の数が少なく、味方の数が多い。数字が後で変わってしまうあたり、
さすがはナポレオンの部下 、というべきだろうか。
ネイはこの日、さらに戦闘が一段落した夜10時に、スディアーから皇帝向けの報告を記している(p308-309)。第3軍団はこの日の午前5時に、ドレーザへ向かうべくヴァータ、マウケンドルフ及びホイヤースヴァーダからそれそれ出発した。連合軍が抵抗を見せたのはシュプレー河の渡河点にあるクリックス村においてのみ。ネイはこの敵を迂回するよう、ローリストンにシュタイニッツからゼアヒェンとライヒナムへ前進するよう命じたが、連絡ミスで出発が午後2時になったうえ、困難な地形のために移動にも時間がかかった。
ようやく第5軍団が敵の背後に到着したのは夜8時だったが、既にクリックスはスーアン師団に支援されたケレルマンの兵によって奪取されていた。この戦闘におけるフランス軍の損害は戦死200人、負傷が1000人から1200人だったという。さらにネイは翌日の方針として、バルートを経てヴァイセンベルクへ向かうとの考えも記している。
この報告が実際には21日未明まで送り出されなかったことは前に指摘している 。20日午後4時にベルティエからネイに向けて出された報告に関する内容が追伸部に書かれ、さらに文末に21日午前4時半という時間が書かれているのがその論拠だ。この追伸の中でネイは「私にヴァイセンベルクへ向かうよう命じたメモ」を士官から手渡されたと記しているのだが、同時に「ホッホキルヒとバウツェン方面で再び砲撃と射撃が始まっているため、新たな命令を受け取るまでヴァイセンベルクへの移動は行わない」と返答している。
クリックスからドレーザ(ブレーザ)を経てヴァイセンベルクへ向かうルートは、実際に戦闘が行われている方角(南方)ではなく、もっと東寄りに向かうものである。もし南方で激しい戦闘が行われているのであれば、むしろ直接そちらへ向かった方がいいかもしれない。ネイはおそらくそう考えてこのような返答を記したのだろう。そして後に帝国司令部から来た新たな命令は、このネイの判断を追認するようなものだった。
Foucartはこの日のネイ軍団の動きについて以下のようにまとめている。19日夜にケレルマンの前衛部隊はヴァータに、ネイ自身と2個師団はマウケンドルフに、残る3個師団はホイヤースヴァーダにいた。彼らは翌朝から行軍を始めたが、前衛部隊がクリックスに到着したのは早くて午後2時か3時頃。ローリストンはネイの報告にあるように出発が遅れ、到着は午後8時になった。レイニエの第7軍団はホイヤースヴァーダ前面で宿営し、バウツェンへの道を取っていた(p309-310)。
なおこの20日、ネイの部隊はフランス軍主力の最左翼にいたベルトランの部隊とようやく連絡を確立している。スールトが夜11時に出した報告書では、ネイと連絡が取れたことが記されている(p300)。ベルトランが同じ時刻に書いた報告でも、左翼をカバーしていたブリシュ将軍の騎兵がネイとリンクしたとある(p301)。
ちなみに大陸軍公報(Correspondance de Napoléon 1er, Tome Vingt-Cinquième, p318-319)によると、ナポレオンはこの日の午前8時にバウツェン背後の高地に登り、そこで指示を出した。ネイに対してはクリックスに接近し、シュプレー河を渡り、敵右翼を迂回してヴルシェンの敵司令部へと向かい、そこからヴァイセンベルクへ進むよう命令。連合軍は右翼の高地を保持してフランス軍主力とネイの部隊の間にとどまっていたが、そこからさらに右側へと軍のかなりの部分を投入してネイに対抗することを強いられた、とある。
だがこれまで紹介してきたネイからの報告を見る限り、ナポレオンが「バウツェン背後の高地」から彼に命令を出したというのが事実であると裏付ける証拠はない。少なくともネイからの報告の中に「ヴルシェン」という地名は一切出てこない。出てくるのはドレーザやヴァイセンベルク、あるいはバウツェンやホッホキルヒといったものばかりだ。もし命令が出ており、それがネイに届いていたのなら、20日午後10時に書いた報告の中に「ヴルシェンへ向かう」という一文があっておかしくないはずだ。
実は18日の午前10時に「ドレーザへ向かえ」という命令(
La manoeuvre de Lützen, 1813 , p198-199)を出した後、20日午後4時に翌21日の行動に関する命令を出すまで、帝国司令部はネイに対して何も告げていないのだ。少なくともFoucartの本を見る限り、この間にネイから司令部への報告はいくつか載っているが、皇帝や参謀長からネイに宛てた命令はどこにも見当たらない。
証拠の不在は不在の証明にはならないわけで、だからこの丸2日以上の期間において帝国司令部が完全にネイを無視していたと断言はできない。しかしこの間、ネイの報告にしつこくドレーザへ向かうことが繰り返されているのを見ても、おそらくそれ以外に目指すべき場所について指示が来ていなかった可能性は十分にあるだろう。決定的な会戦において敵の側面あるいは背後を攻撃するという重要な役割を担っている部隊に対する命令の出し方としては、いささか不親切に思える。以下次回。
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