一方、司令部の18日午前10時の命令をベルトラン経由で受け取ったネイは、19日午前11時にホイヤースヴァーダからその返答を寄こしている(p272)。彼はドレーザに向かうことを了承したうえで、今後の移動予定について知らせた。ローリストンはモルトカを経てオピッツかリピッチュへ前進。ネイ自身の第3軍団は前衛部隊がノイデルフェル(ノイドルフ=ノヴァ)へ、スーアン師団とデルマ師団はニーゼンドルフへ、残りはケーニヒスヴァータへ向かうことになっており、ネイは最後の地点に司令部を置くと伝えている。
ネイのこの説明を見る限り、彼の第3軍団が右翼、ローリストンの第5軍団が左翼となって、南東にあるドレーザ(ブレーザ)へ向かおうとしているように見える。18日にネイが送ってきた報告では、第3軍団の向かう方向はケーニヒスヴァータと変わりはないが、第5軍団にはヴィティヒェナウからまっすぐ南方へ進み、クロスター=マリーンシュターン(パンシュヴィッツとシュヴァイナーデン間)を経てバウツェンと連絡を取るとしており、要するに第5軍団の方がネイの右翼を形成しているように見える。ナポレオンの命令で向かう方角をドレーザへと変えたのに伴い、両軍団の配置が入れ替わった格好だ。
同日正午、ネイは新たに18日午前10時の暗号化された(つまりベルトラン経由ではない)命令も受け取ったと報告してきた(p273)。また20日におそらくスディアーまで前進するとも伝えている。同じくホイヤースヴァーダ発だが時間の書かれていない報告(p273-274)では、17日にローリストンがゼンフテンベルクで行ったプロイセン軍との小競り合いについての報告も記されている。
ネイからのこの日最後の報告はマウケンドルフから午後9時に出されたものだった(p274)が、そこでは2つの戦闘について言及がなされている。1つはヴァイシヒ付近で行われたローリストンと連合軍との戦闘。ローリストンからの報告によると敵はヨルク将軍の部隊であり、また多くのロシア軍もいたという。もう1つはケーニヒスヴァータで行なわれた戦闘で、ベルトランの左翼を構成するイタリア師団が連合軍の攻撃を受けたところに、ケレルマン率いる第3軍団前衛部隊が増援として到着したものだ。ネイの第3軍団は19日夜の時点でケーニヒスヴァータに2個師団、ホイヤースヴァーダに3個師団がいた。
この日の連合軍の動きについて、5月24日付の大陸軍公報は以下のように説明している(
Correspondance de Napoléon 1er, Tome Vingt-Cinquième , p317-318)。かなりの部隊がホイヤースヴァーダ経由で到着したことを知った連合軍は、ただこの時点ではローリストン軍団の到着しか把握していなかったため、その戦力は1万8000人から2万人程度だと推測し、19日午前4時にヨルクの1万2000人とバルクライ=ド=トリーの1万8000人をこの方面に派出するにとどめた。ロシア軍はクリックスに、プロイセン軍はヴァイシヒに布陣した。
ベルトランが派出していたイタリア師団は正午にケーニヒスヴァータに到着したが、部隊配置がまずかったため午後4時に敵の奇襲を受け、兵600人と大砲2門、弾薬箱3つを失った。ケーニヒスヴァータは奪われたが、第3軍団前衛部隊の騎兵とともに到着したケレルマンがイタリア師団の先頭に立って村を奪回した。
一方、ヴァイシヒには隘路を経て順番にローリストン軍団が到着し、ヨルクの部隊と交戦した。3時間に及ぶ戦いの末に村は一掃され、ヨルクの部隊はシュプレー河の対岸へと撃退された。この戦闘経過については、20日にローリストンがベルティエに宛てて報告書を記している(Foucart, p304-307)。
それによるとマウケンドルフを出発した第5軍団はまずローザから半リューのところでコサックと遭遇した。ローリストンは歩兵1個大隊と騎兵200騎を送り出して約800騎のコサックを追い払い、側面を守る部隊として2個大隊を残して前進を続けた。午後3時頃、今度はシュタイニッツの正面で大砲4門を含むプロイセン軍と遭遇。メゾン師団の兵が彼らを迂回しようと試みると大砲は後退していったが、それはヴァイシヒの背後に隠れている敵主力へとフランス軍をおびき寄せるためだったという。
メゾン師団の第151及び第153連隊は敵と遭遇し、本格的な戦闘が始まった。ローリストンはラグランジュ師団を前進させ、敵が奪おうと試みていたクライン=シュタイニッツ村(現在のノイ=シュタイニッツか)に3個大隊を配置した。さらに第154連隊の3個大隊はクライン=シュタイニッツを経由して森へと突入し、側面を迂回された敵は後退した。追撃を行った第154連隊は森の出口で敵歩兵10個大隊と軽騎兵1個連隊に遭遇したが、とどまって戦った。
午後6時、連合軍側にロシア軍が増援として到着し、即座に攻撃してきた。ローリストンは予備においていたロシャンボー師団の第135連隊3個大隊を前進させた。激しい戦闘が続いたが、シュプレー河監視のために残されていた第134連隊がやってきてプロイセン軍とロシア軍をその陣地から追い出した。ローリストンは「第5軍団の全ての連隊」はそろって勇敢に行動したと称賛している。
ローリストンは味方の損害について戦死が300人、負傷は1000人から1200人と推測。敵については「数多くの負傷者を出したに違いなく、戦死は少なくとも我々と同程度」と述べ、また40人ほどの捕虜も得たという。彼によればロシア軍は2個師団の約1万人と、それ以外にコサックがおり、ヨルク将軍が指揮するプロイセン軍は騎兵5個連隊を含む2万2000人に達していた。一方、ローリストンは背後に監視用に置いた部隊を除き、1万1000人の兵力だったという。
ちなみにBodartの
Militär-historisches Kriegs-Lexikon によれば、ヴァイシヒの交戦(p450)に参加したフランス軍は1万3400人、プロイセン軍とロシア軍は計7400人となっており、ローリストンの報告とは随分数字が違っている。また損害もフランス軍1800人に対して連合軍は1200人となっており、前者の方が損害が多い。唯一、フランス軍が勝利したという部分のみはローリストンの報告と一致している。
連合軍は戦場から4分の3リュー後方へと下がった。第5軍団はアイヒベルク(ヴァイシヒ南西の丘)で野営したが、夜10時にプロイセン軍の騎兵と歩兵がフランス軍の哨戒線に対する攻撃をしかけてきた。だが彼らは至近距離から反撃を受けて撃退された。ローリストンは追伸部で、捕虜の数が増えていること、敵の戦死は自分たちの倍になり、損失は4000人から5000人になるだろうと追記している。
この日、ネイはマウケンドルフで、レイニエはその後方1リューの場所で夜を過ごした。
そのレイニエは同日、アルト=デーバーンから皇帝へ手紙を書いている(p274-275)。彼は前回の戦役(ロシア遠征)では全軍の最右翼に、今回は最左翼に位置して「陛下と決定的な作戦からは遠く離れていた」のだが、この日の命令によって本格的な会戦に参加できる希望が出てきたと述べている。彼の率いる部隊はこの時点で1万人ほどしかいなかったことにも言及している。
彼がヴィクトールに宛てて記した手紙(p275-276)にはもう少し詳しい彼の行動が書いている。19日、彼の軍団は当初は北方バルートへ向けて進む予定だったが、命令変更を受けてアルト=デーバーンへ移動し、さらに翌朝にはホイヤースヴァーダ近くのザイデヴィンケルまで到着するだったという。また敵の捕虜になりながら脱走した兵の情報として、バルクライ=ド=トリーの部隊が前日にバウツェンの背後で連合軍主力と合流したとの話も報告している。以下次回。
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