バウツェン 10

 承前。ナポレオンがついにドレスデンを出発しバウツェンに向かうことを18日に決めた。彼がネイやローリストンに対してバウツェン方面へと方角を転じるように命令した15日夜から2日半もの時間が経過した後になってようやく、だ。即断即決即行動を信条としていた皇帝が、なぜこの時はこんなにものんびりと構えていたのだろうか。
 ThiersはHistoire du Consulat et de l'Empire, Tome Quinzième(英訳はHistory of the Consulate and the Empire, Vol. VII)の中で、この時の状況について以下のように記している。

「ナポレオンがドレスデンを出発しようとした時、[フランス軍と連合軍の]両司令部から来るニュースに合わせて指示を書き直すために失っていた時間を取り戻すべく、ウィーンから可能な限り急いでやって来たブブナ氏[オーストリアの使節]が、遂に5月16日夕に現れた」
p444(英訳本p463)

 彼の到着を受けたナポレオンはこの日のうちにすぐ彼を謁見した。ブブナが後に記した報告書がOesterreich und Preussen im Befreiungskriege, Zweiter Bandに収録されているのだが、それによると彼はまず到着日の午後8時から午前1時半までナポレオンと会談を持っている(p649)。この時はオーストリアの態度に対してナポレオンが一方的に不満をまくしたてのみだったが、17日午後2時から開催された2度目の会談(p655)では平和交渉を提案したオーストリア側に同意したそうで、ブブナは喜んでウィーンへと戻っている。
 つまりナポレオンはネイらをバウツェンに向かわせる決断をした後、自身がバウツェンへと出発することを決めるまでの期間を、オーストリアとの外交交渉のために使っていたことになる。Thiersによればナポレオンは、交渉を終え「全ての必要な命令を下した後で(中略)18日に出発しバウツェンへの道を取った(後略)」(p452、英訳本p466)ということになる。外交交渉を戦争より優先したかのようにも読める書き方であり、皇帝ナポレオンの優先順位が軍事より政治になっていることを窺わせる一例に見えなくもない。
 ナポレオンがバウツェン戦の前と似たような状態に置かれていたのが、1805年のアウステルリッツの戦いで、この時はロシア=オーストリア連合軍との対戦前にプロイセンの外交官ハウクヴィッツが彼のところを訪ねてきていた。Correspondance de Napoléon 1er, Tome Onzièmeによると11月22日付のタレイランへの手紙には既に彼についての言及が表れており(p430)、25日にはナポレオンのいるブリュヌに近いイグラウまで到着していた。
 だがナポレオンはハウクヴィッツをこの地で待たせておくよう命令し(p435)、外交より戦争を優先した。そしてアウステルリッツで勝利した後には、ハウクヴィッツに対してウィーンで待つよう改めて伝えている(p454)。バウツェン時におけるブブナへの対応に比べれば随分と冷たい態度であり、逆に言えば年を取ったナポレオンの優先順位が変わったことの証拠とも取れそうな挿話だ。若く勢いのあったナポレオンは外交より戦争に勝負をかけ、だが8年後の彼は戦争の前に外交を優先した、とThiers的な見方をしたくなるところだ。

 でもその見方は単純すぎるだろう。1805年と1813年では情勢がかなり異なる。1805年のナポレオンはウルムでオーストリア軍を散々に打ち破っており、相手をすべきはほとんどがロシア軍だった。当時の彼はほとんど負けたことがない、まさに常勝不敗の将軍だった。一方1813年のナポレオンは、リュッツェンで勝ったとはいえ連合軍の大半を取り逃がしたばかりだった。おまけに前年には歴史に残るほどの大敗北をロシアで喫しており、もはや無敵の存在とは思われていなかった。
 もともと1805年時点のプロイセンは、フランスから見ても信用のならない相手だった。むしろ外交的策略を警戒し、ハウクヴィッツと会うことを避けても不思議はなかった。もちろん1813年のオーストリアも決して全面的に信頼のおける相手ではなかっただろうが、少なくとも当時のオーストリア皇帝はナポレオンの岳父であり、また両国は前年には同盟を結んで戦った仲でもあった。皇帝が自ら相手にした方がいい存在だったと考えられる。
 何よりFoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813を見る限り、ブブナの到着前に帝国司令部から出ていた命令自体に、ナポレオンが18日まで待っていた理由が明記されているのが大きい。以前にも紹介したが、16日正午にベルティエからマクドナルド宛に出された命令の中にある「モスクヴァ公は6万人の兵とともにおそらく明後日18日にはホイヤースヴァーダに到着するだろう。皇帝が敵陣地の攻撃を考えるのはそれからだ」(p217)という一文こそ、ナポレオンがドレスデンに18日までとどまっていた理由を記していると考えられる。
 さらに17日の午前2時にナポレオンがベルティエに宛てて記した命令にも、18日には若年親衛隊やラトゥール=モーブールの騎兵と同様に「皇帝自身がそこ[バウツェン正面のフランス軍陣地]に行くであろう」という方針が示されている。この時間はブブナとの1回目の会談が終わった直後であり、もし外交交渉こそ最優先と皇帝が考えていたのなら、オーストリア側と合意に至っていないこの時点でこのような方針を示すのは難しかったのではなかろうか。
 ナポレオンが18日にドレスデンを出発する予定だったのは、その日にならなければネイらがバウツェンまで1日行程の場所に到着しないことが分かっていたためだと思う。いやそれどころかナポレオンのこの見通しは実は楽観的すぎた。ナポレオンが最初にバウツェン方面への転進を命じたのは15日午後10時だが、それがルッカウにいたネイのところに届くのは、Foucartの計算によれば16日の午後10時以降。従ってネイがこの命令を実行すべく移動を始められるのは早くて17日以降になる。ルッカウからホイヤースヴァーダまでは70キロもあり、「モスクヴァ公の軍が18日にホイヤースヴァーダにいるには道のりが長すぎる」(p217n)というのがFoucartの見解だ。ナポレオンは18日までのんびりとドレスデンで待っていたどころか、いつもの彼と同様、むしろそのせっかちな性格を見せていたと考えた方がいいように思う。

 しかしこの期間中の彼の判断に問題がなかったわけでもない。最大の課題は、15日午後10時にバウツェンで戦うことを決めた時点で、ネイとローリストンしか呼ばなかった点だろう。彼が15日午後10時の時点でヴィクトールらをベルリンに向かわせるつもりだったことは、その時間に彼がマクドナルドに出した命令の中で明言されている(p203)。この意図がネイに伝えられたのは16日午後5時にドレスデンを出た命令が最初であり、フランス軍の報連相に問題が生じていたことは分かるが、少なくともその時までナポレオンが引き続きベルリンを攻撃目標に据えていたのは間違いない。
 彼がこの方針をひっくり返したのはやっと18日の朝になってからだ。この時間にベルティエに出した命令には「ローリストン将軍及び彼[ネイ]の全戦力(toutes ses forces)」を集めてドレーザへ向かうよう指示がなされている(p248)。もちろん、このタイミングで出された命令がヴィクトールの手元に届くにはさらに時間を要し、ようやく19日朝になったことは前回も指摘した。彼らがバウツェンへ向けて行軍を始めたのはその後になってからだ。
 もし15日午後10時の時点でヴィクトールらもバウツェンへ向かわせていることを決断していたなら、事態はどう変わっただろうか。Foucartの言うようにこの命令が届くのは16日の遅い時間となり、実際に部隊が動き始めるのは17日からとなるだろう。16日夜にヴィクトールがいたイェッセンからホイヤースヴァーダまでは110キロもの距離があり、かなりの強行軍でも3日はかかりそうだ。それでも全てがうまくいけば20日には戦場近くに姿を現すことは可能。だが史実では19日朝にようやく命令変更が届き、最も南にいたレイニエの軍団がバウツェンの戦いにおける最終局面にかろうじて姿を現すことができただけだった。
 PetreのNapoleon's Last Campaign in Germanyの中でも、「この点については皇帝のみが非難に値するように見える」(p108)と指摘されている。ナポレオンは決定的な瞬間に決定的な地点へと可能な限りの戦力を集めることに失敗したのである。以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント