彼の到着を受けたナポレオンはこの日のうちにすぐ彼を謁見した。ブブナが後に記した報告書がOesterreich und Preussen im Befreiungskriege, Zweiter Bandに収録されているのだが、それによると彼はまず到着日の午後8時から午前1時半までナポレオンと会談を持っている(p649)。この時はオーストリアの態度に対してナポレオンが一方的に不満をまくしたてのみだったが、17日午後2時から開催された2度目の会談(p655)では平和交渉を提案したオーストリア側に同意したそうで、ブブナは喜んでウィーンへと戻っている。
ナポレオンがバウツェン戦の前と似たような状態に置かれていたのが、1805年のアウステルリッツの戦いで、この時はロシア=オーストリア連合軍との対戦前にプロイセンの外交官ハウクヴィッツが彼のところを訪ねてきていた。Correspondance de Napoléon 1er, Tome Onzièmeによると11月22日付のタレイランへの手紙には既に彼についての言及が表れており(p430)、25日にはナポレオンのいるブリュヌに近いイグラウまで到着していた。
何よりFoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813を見る限り、ブブナの到着前に帝国司令部から出ていた命令自体に、ナポレオンが18日まで待っていた理由が明記されているのが大きい。以前にも紹介したが、16日正午にベルティエからマクドナルド宛に出された命令の中にある「モスクヴァ公は6万人の兵とともにおそらく明後日18日にはホイヤースヴァーダに到着するだろう。皇帝が敵陣地の攻撃を考えるのはそれからだ」(p217)という一文こそ、ナポレオンがドレスデンに18日までとどまっていた理由を記していると考えられる。
彼がこの方針をひっくり返したのはやっと18日の朝になってからだ。この時間にベルティエに出した命令には「ローリストン将軍及び彼[ネイ]の全戦力(toutes ses forces)」を集めてドレーザへ向かうよう指示がなされている(p248)。もちろん、このタイミングで出された命令がヴィクトールの手元に届くにはさらに時間を要し、ようやく19日朝になったことは前回も指摘した。彼らがバウツェンへ向けて行軍を始めたのはその後になってからだ。
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