バウツェン 9

 承前。FoucartがBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813の中で、ネイの時刻が書かれていない17日付の手紙を「17日午前10時にベルティエが書いた命令への返答」として「17日夜に書かれた」(p243)と推測している件の続き。同封されている手紙の情報が古すぎるため、本当に17日夜に書かれたものかどうか怪しいことを指摘した。
 ネイの文章そのものもおかしい。そこでは彼とローリストンだけでなく、ヴィクトール、セバスティアニ、レイニエらもバウツェンへ向かうことを前提に話がなされており、後者の3個軍団はアルト=デーバーンへ向かうことが書かれている。アルト=デーバーンはネイが最初にシュプレンベルクへ向かう命令を受けた際、つまりまだヴィクトールらをベルリンに向かわせる意図を知らなかった時に、レイニエ軍団の進軍目標として設定した場所だ。17日午後6時に、ヴィクトールらをベルリンへ向かわせよとの命令を受けてレイニエらを彼の指揮下に移したばかりのタイミングで書くには、いささかおかしな文章である。ただしネイ軍団の目的地がホイヤースヴァーダとゼンフテンベルクの間となっているのを見る限り、彼の目的地がシュプレンベルクからホイヤースヴァーダへと変更された後なのは確かだろう。
 実のところネイは17日午後1時半には既にカラウに到着しており(p241)、その時点で目的地がホイヤースヴァーダに変わったことは知っていた。そして午後6時にはヴィクトールらをベルリンに向けて機動させよとの指示を受けている(p242)。だとすればこの、Foucartが17日夜に書かれたと想定している文章は、実際には17日午後1時半から6時の間のどこかのタイミングにおいて書かれたと考える方が妥当ではないだろうか。
 もちろんFoucartの解釈が成り立つ余地もある。彼はこのネイの報告について、ベルティエが17日午前10時に書いた命令への返答だと解釈しているが、その命令の中でベルティエはヴィクトールらについてネイが「適切だ」と考えた命令を出すよう指示している(p232)。この命令を受け、ヴィクトールらはベルリンに差し向けるよりバウツェンへ進軍した方が適切だとネイが判断したのなら、件の報告書のような文章が成り立つ可能性はあるだろう。だが午後6時にベルリン行きの命令を出したばかりの彼が、ほんの数時間後にまた真逆の命令を出したと考えるのは、いささか無理があるように思う。
 実際、ヴィクトールが18日にダーメからベルティエに宛てた報告を見る限り、彼はこの時点で「第2、第7軍団及びセバスティアニ将軍指揮下の騎兵」とともにベルリンへ向かう気満々だったことが分かる(p267)。ベルリン行きをキャンセルされ、ホイヤースヴァーダへ向かうよう命令を受けたのは19日朝(p275)であり、まさに出発しようとしている時に駆けこんできた士官がその命令を運んできたそうだ。この命令が17日夜にネイの司令部(カラウ)から出たとすれば、あまりにも到着時刻が遅すぎる。もっと後、具体的には18日午後6時にネイが書いた報告書(p266-267)の中で触れられている命令が、19日朝にヴィクトールのところに届いたと考える方が辻褄が合う。

 18日午前4時、皇帝は立て続けにベルティエに命令を出した。そのうちの1つ(p245-246)を見ると、この日にローリストンとネイがホイヤースヴァーダに到着すると彼が想定していることが分かる。また別の命令(p247)には司令部に対して出発の準備をするよう告げており、彼がついに会戦の決断をしたことが窺える。
 同日午前には、ドレーザ問題について触れた時に説明したネイへの指示がナポレオンから出された(p248-249)。この命令においてナポレオンは「ローリストン将軍及び彼[ネイ]の全戦力をまとめ、行軍し、ドレーザへ向かうことを望む」と述べているのだが、どうやらこれがヴィクトールらのベルリン行軍をキャンセルする命令に相当するようだ。皇帝はネイの全軍が19日にはホイヤースヴァーダに到着し、20日には「さらに後退するよう敵に撤収を強いるか、あるいは有利な状況で我々が敵を攻撃できる立場をもたらすような陣地に移動できる」ものと期待していたようだ。
 だがベルティエはこの命令を少し変更してネイに伝えている。LanrezacのLa manoeuvre de Lützen, 1813によると、ローリストン及びネイに「全戦力を集めて行軍し、ゴッタメルデ近くのドレーザへ向かえ」と指示したのに加え、到着の日程について「19日と20日に我々に接近し、21日には[望ましい]陣地に移動できるだろう」(p198-199)と書いていることが分かる。Lanrezacは、ネイとローリストンがナポレオンの命令通りに到着するのは困難だったため、ベルティエが皇帝の同意のうえで文章を書き直したのだと指摘している。
 同日、ナポレオンがベルトランに宛てた命令(p249)でもドレーザに言及していることは既に紹介済みだが、同じ命令の中で彼はネイとローリストンがこの日の夜に「ホイヤースヴァーダとグロス=デーバーン[ママ]」に到着すると伝えている。地図を見る限り後者の地名に近いものとしてはグロス=デッバーンGross-Döbbernというものがあるが、場所がバウツェンへの道筋からはかなりずれているため、もしかしたらアルト=デーバーンの間違いかもしれない。もう一つ、この文章で注目すべきなのは、ナポレオンが「本日私は、ドレスデンからバウツェンまでの途上にある司令部へ向かうべく出立し、今夜は宿営地に向かう」という発言だろう。司令部に移動準備を命じていたことと平仄があっている。
 ベルトランに対する別の命令(p249-250)では、接近してくるローリストンとの連絡のため、1個旅団を左翼方面に送り出すことも命じている。また、ナポレオンが今夜、バウツェン前面の宿営地に来ることをローリストンからネイに伝えさせるとしている。同じくマクドナルドへの命令(p250)でも、親衛隊全部とともにドレスデンを出発すること、夜明けにはマクドナルドの司令部に来て敵を偵察するつもりであることを明らかにしている。
 興味深いことにこの日、ナポレオンがザクセン人のスパイに関する命令をベルティエに宛てて書いている(p250)。ローリストン将軍のところに送られたこのスパイは任務を果たすことができなかったものの敵に関する情報は伝えてきたため、「約束した額の3分の1を支払うように」と命じている。さらにこのスパイには新たなローリストン宛ての手紙を託し、何が起きているかを調べさせ、もし何か重要な情報を持ち帰れば「大儲けできるだろう」とも述べている。スパイに対する皇帝の対応方針はどうやら「成果主義」と呼べるものだったようだ。

 接近するローリストンと連絡を取るように言われたベルトランは、その首尾について18日午後8時の皇帝宛の報告(p262-263)で説明している。彼はまずベルティエの指示に従い、サン=タンドレ将軍が指揮するイタリア旅団をケーニヒスヴァータへ送り出した。この将軍とともに出発したグルーシー少佐は、歩兵1個大隊及び騎兵50騎とともにヴァータを経由してホイヤースヴァーダまで到着する見通しだとしている。このグルーシーが、ドレーザへ向かえという命令を持ってネイのところにたどり着いた件については既に述べている。またベルトランはローリストンに対し、1個師団をバウツェンまでの途上に送り出すべきだとの手紙も書いた。
 一方、ローリストンやネイからの手紙について、Foucartはオリジナルの暗号文と一緒に参謀部で解読した文書の両方を掲載している。ネイの配下部隊以外にこうした文献を載せていないところから想像するに、おそらくドレスデンからバウツェンまでの作戦線が通っている地域は比較的安全に伝令が行き来できたのに対し、そこから横にずれたホイヤースヴァーダ方面についてはやはりコサックなどの妨害が激しかったのだろう。18日付のローリストンの暗号文(p266)によれば、彼はこの日の2時にホイヤースヴァーダに到着した。軍団の一部はバウツェン街道上に、一部はカーメンツ街道上に配置され、翌日にはバウツェンへの途上へ向かうと告げている。
 同日付のネイからの暗号文(p266-267)は、ゾルノ(当時の地図から推測すると、現在はゼートリッツァー湖に沈んでいるかもしれない場所)から出されている。翌日には第3軍団がケーニヒスヴァータ付近に、第5がヴィティヒェナウを経てフーフスベルク(?)に展開する予定で、主力とはクロスター=マリーンシュターンを経て連絡を取る。また午前10時にベルティエから来た命令を受け、ヴィクトールとレイニエに対しては大急ぎでバウツェンに向かい、「20日か21日には」敵の近くまで到達するよう命じたことも記されている。
 同日付のヴィクトールからの報告については上で触れているので省略する。以下次回。
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