バウツェン 8

 承前。引き続きFoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813を使ってバウツェンの戦い前の状況を調べてみる。シュプレンベルクへ向かう命令を受けたネイが、16日午後10時にセバスティアニとヴィクトールに対してもルッカウを通過してカラウへ向かうよう命令を出したのだが、この移動は前回も記した「ヴィクトールらをベルリンへ向かわせる」(p218-219)というナポレオンの意図に反し、ヴィクトールらをベルリンから遠ざけバウツェンへ近づくように動かしている。
 なぜネイはこんな命令を出したのか。彼がこの時受け取った命令に「ヴィクトールらをベルリンに向かわせる」というナポレオンの意図が記されていなかったからだ。ベルティエが15日午後10時にネイに出した命令には「そなたがいるハーツベルクの陣地からシュプレー河畔のシュプレンベルクへ移動するよう皇帝は命じた。敵はバウツェンの陣地で合流し、そこを保持しようとしているように見える」(p204)としか書いていない。シュプレンベルクへ進むのが第3軍団だけなのか、それともネイの配下にある全軍団なのか、これでは分からないのだ。
 ローリストンの手元に届いた命令でも、その部分は明確でなかった。彼が受けた命令には自分がホイヤースヴァーダへ、ネイがシュプレンベルクへ向かうことは記されていたが、他の軍団への言及はなかった(p204)。ローリストンが自分の受けた命令についてネイに伝えていたとしても、やはりヴィクトールらにベルリンを攻撃させるというナポレオンの意図は伝わらなかっただろう。いやそれだけでなく、命令を発したベルティエも知らなかった可能性がある。
 15日の時点でヴィクトールら「4万人をベルリンへ行軍させる」(p203)というナポレオンの方針が書かれていたのは、午後10時にマクドナルドに宛てて皇帝が記した命令の中だけだ。ベルティエを経由して各軍団に宛てた命令の中には、ヴィクトールらについてどうするかの記述がない。ベルティエがこの件について命令を最初にネイに向けて送ったのはようやく16日の午後5時(p218)。マクドナルドに出した命令から20時間近くが経過した後になってようやくだ。
 そしてこの命令は16日午後10時の時点ではまだネイのところに届いていない。従ってネイは自分の指揮下にある全部隊をシュプレンベルク方面へと進める必要性を感じたと思われる。16日にジョミニがレイニエに宛てて記した命令(p229-230)でも、彼らにルッカウへ向かうよう命じた後で、「18日には[ネイ]元帥が新たな命令を送るカラウへ向かうように」としており、ネイがレイニエ、セバスティアニ、ヴィクトールの全部隊を引き連れてバウツェンに進むつもりだった様子が窺える。
 なおヴィクトールがこの日のベルティエ宛報告を送ってきたのはイェッセンだ(p230)。16日夜の時点でこの方面のフランス軍はネイがルッカウ、レイニエがダーメ、セバスティアニがシュヴァイニッツ、ヴィクトールがイェッセンと東西に並び、南方のドーバールークにローリストンがいた格好となる。

 17日午前2時、ナポレオンはベルティエに対して命令を発した(p231)。その中で彼は、さらに若年親衛隊とラトゥール=モーブールの騎兵を18日にバウツェンに集めるよう指示し、ネイが6万人から7万人を率いてバウツェンに向かうこと、そして自分自身もそこへ向かうつもりであることを述べた。16日の時点では18日にネイとローリストンがホイヤースヴァーダに到着したところで連合軍を攻撃するかどうか考えるとしていた(p217)が、この命令を見る限り前倒しで攻撃方針を固めていたように見える。
 これを受けてベルティエはネイとローリストンに対し、暗号の命令書を送った。時間は午前10時となっているが、実際には3人の伝令がそれぞれ午前10時、同11時、午後3時に運んだそうで(p232)、参謀長がこの命令をいかに重要視していたかが分かる。
 ベルティエは、ホイヤースヴァーダからシュヴァルツェ=エルスター右岸に沿ってバウツェンへ向け行軍するよう命じ、いつバウツェンに到着するかをネイに問い合わせている。またヴィクトールらの部隊に対しては「敵について知っていることと状況を見て、適切だと考えるように」ネイから命令を出すように指示している。そして最後に「我々は会戦を行うことになるであろうと全てが示唆している。従ってモスクヴァ公とローリストン将軍がホイヤースヴァーダからバウツェンへと行軍するのが皇帝の意図である」との文章で命令を締めくくっている。
 一方、前夜にローリストンが寄こした報告書は、この日の夜までにはベルティエの下にたどり着いていたようだ。ベルティエからベルトランへ17日午後10時に出された命令(p233)では、ローリストンが「今夜はゼンフテンベルクで宿営し、あす18日にはホイヤースヴァーダに到着する」との一文がある。同時刻に書かれたモルティエ宛の命令(p233)にも同じことが書かれている。さらに時間は不明だが同日付でナポレオンに宛てた報告(p234)では、ネイが16日午後10時に出した報告書を受け取ったことにも言及している。
 興味深いことに、この報告内ではネイが行った「ナポレオンの意図に反した命令」が修正されたことにも言及している。伝令役を引き受けた参謀のモンルヴィユは、ベルティエの下へと戻る途中、トルガウ前面で16日午後5時にベルティエが送り出した伝令ゾルティクと出会った。ゾルティクの運んでいた命令には、ヴィクトールらをベルリン方面に機動させるよう指示が記されており、それを見たモンルヴィユは自らヴィクトールに対してその指示を伝えたという。おそらくは司令部内の不手際で生じた命令の遅れを、末端の伝令の機転で少し取り戻したことになる。

 17日午後1時、カラウに到着していたネイは「前日正午にドレスデンから書かれた命令」を受け取ったとの報告をベルティエに出した(p241)。実際にネイが受け取ったのは16日午後1時に書かれたもので、地元憲兵がトルガウ経由の迂回路ではなく直接のルートで運んだ。にもかかわらず伝令の移動距離は100キロを超え、この命令がネイに到着するにはほぼ24時間を要した。ネイは追伸部に暗号で「あすホイヤースヴァーダへ向かう」と記している。
 さらに午後6時、ネイはカラウで記した新たな報告書(p242)において「16日午後5時」に書かれた命令、つまりヴィクトールらをベルリン方面に差し向けよとの指示を受け取ったと記している。ネイはすぐヴィクトールにこれを知らせ、またレイニエとセバスティアニを彼の指揮下におき、さらに本来はローリストン軍団に所属しているピュトー師団に対して「19日にゼンフテンベルクに到着し、20日にはホイヤースヴァーダへ来て第5軍団と合流」するよう命じると述べている。そして実際、レイニエに対してはヴィクトールの指揮下に入るよう同日に命令を送っている(p242-243)。
 問題はその次に掲載されている報告だ。Foucartはこのp243に載っている17日付の、しかし時間は書いていないカラウ発の報告について、「17日午前10時に参謀長から3回にわたって送られた手紙に対する返答」として17日夜に書かれたものだと推測している。ただ内容を見るとそう素直に信じていいのかどうか怪しい。
 報告内でネイは「第2、第3、第5、第7軍団は20日か21日にバウツェン方面で戦うことができるよう相互に結び付いている」と発言。18日にはローリストンがホイヤースヴァーダに、ネイ直率の5個師団がこの町とゼンフテンベルク間に、レイニエがアルト=デーバーンに、そしてヴィクトールとセバスティアニはアルト=デーバーンとカラウの間に布陣すると記している。さらにセバスティアニ、ケレルマン及びローリストンからの手紙も同封している。
 ケレルマンが書いた手紙は、16日にリュッベン(ルッカウから17キロ)から発したものだ。セバスティアニの文章はやはり16日にシュヴァイニッツ(ルッカウから50キロ強)で書いたものであり、ローリストンの文章は16日午後9時にドーバールーク(ルッカウから30キロ強)からベルティエに宛てて記したものと同じである(p243-244)。いずれの文章も16日のうちに書かれ、それからネイの下にたどり着いたことになる。Foucartが想定するようにネイの報告が17日夜に書かれたものだとすれば、彼は前日までの古い情報を同封したことになる。
 だがそれには違和感がある。なぜならネイは16日午後10時のベルティエ宛の報告(p228)で、同じようにダーメ(ルッカウから20キロ)にいたレイニエ、シュヴァイニッツのセバスティアニ、ドーバールークのローリストンからの手紙を同封しているのだが、それらは全て同じ16日に書かれたものだったからだ(p228-229)。ネイができるだけ新しい情報をベルティエに伝えようとしていたのは間違いないだろう。なのにこの17日の夜に書いた命令では、軒並み前日の古い情報を同封している。おかしいのではないか。以下次回。
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