バウツェン 7

 承前。方針変更を15日午後10時に決めた帝国司令部だったが、おそらくその後になってマクドナルドの午後8時の報告など、新しい情報がバウツェンから入ってきた。これを受け、ナポレオンがさらに方針を変えた様子が、FoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813に載っているやり取りから窺える。
 16日午前10時、ベルティエがネイに向けて記した命令には、昨晩送った命令の写しを再度送ると記したうえで、「敵がバウツェンに大軍で存在することは疑いない。従って陛下は、そなたが第5軍団とともに来てホイヤースヴァーダに布陣するべきだと考える」(p216)という記述がある。ローリストンだけでなくネイ自身も、シュプレンベルクよりさらに南方へ、即ちバウツェン近くへ向かえという指示だ。この命令はモルティエ経由で運ばれたようだ。同時刻にベルティエからモルティエに宛てて出された命令には、ローリストンと連絡が取れ次第、ネイに上記の新しい命令を記した手紙を送るよう命じている(p217)。
 慎重を期したベルティエは、午後1時に改めてネイに対しホイヤースヴァーダへ向かえという命令を発した。上の手紙がモルティエ経由だったのに対し、こちらの命令は地元の憲兵を使って直接送ると記されている(p217-218)。
 以前にこちらで指摘している通り、ベルティエが常に多数の伝令を送っていたという逸話は伝説であって史実ではない。だが重要だと思った場面で彼が複数の伝令を送る作業をしていた事例がないわけではないことを示す一例が、この命令だろう。逆に言うなら、ネイに対するホイヤースヴァーダへの移動命令が、司令部にとって極めて重要だったことを示す証拠でもある。
 ナポレオンの意図は、ベルティエがマクドナルドに向けて正午に書いた命令から窺える。「モスクヴァ公は6万人の兵とともにおそらく明後日18日にはホイヤースヴァーダに到着するだろう。皇帝が敵陣地の攻撃を考えるのはそれからだ」(p217)。ネイの移動はナポレオンの意思決定において重要なピースだったわけで、だからこそベルティエは複数の命令を送ったのだと思われる。ネイがいたルッカウからホイヤースヴァーダの距離は現代の地図で見ておよそ70キロ前後。皇帝はおそらく、この距離なら2日あれば移動できると踏んだのだろう。
 6万人の兵という部分は、前にも指摘した通り、第3及び第5軍団の合計戦力を意味している。残るヴィクトールの第2、レイニエの第7、セバスティアニの第2騎兵軍団についてナポレオンはベルリンに向かわせるつもりでいたが、その方針がネイに伝えられたのは午後5時にベルティエから出された命令によってだった(p218-219)。
 この命令で皇帝は改めてホイヤースヴァーダへの行軍を命じ、「そこからなら敵が集まりとどまろうとしているように見えるバウツェンまでは1日行程だ」と述べている。またこれまでネイの作戦線はトルガウへと通じていたが、ホイヤースヴァーダへ移動した後はドレスデンへつなぐよう命令も出されている。さらにヴィクトールらとともに行動していたピュトー師団をローリストン軍団に急いで戻すことも求められている。
 そのうえでベルリン方面の作戦に関する「皇帝の意図」が説明されている。ヴィクトールらはベルリンを奪い、可能ならシュパンダウ要塞を占拠し、それからビューロー軍団を追撃する。もし敵がフランス側の要塞、シュテッティン、キュストリン、グローガウを攻撃しているなら、最も必要なところへの支援に向かう。そうでなければ、上記3地点のいずれかでオーデル河を渡り、右岸に拠点を築き、ヴィスワ河までの間の地域を脅かす。またハンブルクのダヴーとも連携する、云々。
 なかなか壮大な計画なのだが、いくら何でもベルリンからグローガウ(グウォグフ)は遠すぎると思うし、ましてヴィスワ河までの地域を脅かすというのはさすがに机上の空論すぎる。実現可能性があるとしたらビューローを追い払ってベルリンを奪うという部分までだと思うし、ナポレオンの最大の狙いもそこにあったと見るべきだろう。つまりプロイセンの首都を奪うことによる政治的なインパクトを狙った作戦だ。この時点でナポレオンは引き続き「二兎を追う」つもりだったと見られる。

 一方、バウツェン近くで直接連合軍と接しているマクドナルドからは引き続き敵の位置に関する詳細な連絡が届いていた。午前11時半に書かれた報告(p219-220)には、彼が目撃した情報に加え、住民から聞いた前日夜に聞いた情報も同封されており、連合軍についてはかなり正確な現状が把握できるようになっていたことが分かる。また夜に書いた報告(文中に午後9時とある)には、連合軍に特に新しい動きが見られないという偵察結果が記されている(p221-222)。
 マクドナルド以外の部隊も戦場に到着しはじめた。彼の左翼に到着したマルモンは、午後10時に「バウツェン前面の野営地」からベルティエに宛てて報告書を記している(p222-223)。ベルトランはバウツェンにほど近いザルツェンフォルストまで到着し、やはりそこから午後10時に報告書を上げている(p223-224)。ウディノは(マクドナルドによると)背後のビショフスヴァーダ付近にまで来ていた。もはや連合軍の位置についてフランス軍が疑問を抱く余地はなくなっていたとみられる。

 帝国司令部はネイとローリストンをホイヤースヴァーダへ向かわせるつもりだったが、その意図が彼らに伝わるには時間がかかった。午後9時にローリストンが記した報告には、15日午後10時にベルティエが出したホイヤースヴァーダへの行軍命令が「到着したばかり」(p225)だと記されている。ドレスデンからドーバールークまでは直接向かうと70キロ強の距離となるため、伝令に24時間もかかるとは思えないかもしれない。ただし、エルベ右岸には実はまだかなり多くの連合軍騎兵が展開していたことが、この日グローセンハインから送られてきたモルティエの報告(p224)からも分かる。安全のためエルベ左岸からトルガウ経由で移動したと考えれば距離は130キロほどまで膨れ上がる。しかもローリストンの報告によれば、この途上にも「数騎のコサックがハーツベルク付近で待ち伏せていた」とあり、ネイへの命令が届かなかった可能性があるという。
 これもまたロシア遠征による馬匹の多大な損耗がもたらしたマイナスの一種だろう。以前、バイレンの戦いについて記した際に、伝令の行動が妨げられていたことによる部隊間の連絡不足がフランス軍の行動に影響を与えていた可能性を指摘したことがある。それと似たような事態が1813年戦役でも発生していたように思える。こちらではゲリラではなく、前線のはるか背後まで潜り込んで活動するコサック騎兵により、フランス軍の報連相にダメージが生じていたことになる。
 命令を受けたローリストンは「明日ホイヤースヴァーダへ向けて出発し、ゼンフテンベルクに到着しようと試みます」と述べ、また自分が受け取った命令をネイに転送することも記した。他に地元の農民などから得た情報も伝えている。
 ネイへの情報伝達にもかなりの時間がかかった。彼がこの日、皇帝に宛てて記した報告のうち、2つは命令変更が届く前に書かれたものだ。時間の書かれていない報告(p226)には、プロイセン軍が彼とレイニエの部隊の間に当たるダーメに潜り込んできたとの情報が書かれ、またセバスティアニから届いたビューロー軍団に関する報告が同封されていた。
 続いて午後5時の報告(p227)では、ローリストン軍団の各師団がカラウ、ゾンネヴァルデ及びドーバールークに展開したという情報が記されている。ネイはゾンネヴァルデがローリストンの司令部になると書いているのだが、ローリストン自身はこの日、ドーバールークから報告を出している。第3軍団の1個師団はリュッベンにおり、1個旅団はダーメへ移動中で、残りはルッカウの背後に展開していた。またバルクライ=ド=トリーの部隊が16日にはバウツェンに到着したのではないかとの情報も伝えている。
 ネイがようやく前日午後10時の、つまりシュプレンベルクへ向かえとの命令を受け取ったことが確認できるのは、16日午後10時に書かれた報告書内の記述だ(p228)。彼はそれを受け、第3軍団は明朝4時にカラウへ、第5軍団はアルト=デーバーン(ゼンフテンベルク北方)へ向かうと報告した。ダーメにいるレイニエの第7軍団は午後1時以降に出発してルッカウへ進み、シュヴァイニッツにいるセバスティアニは17日夕にはダーメに到着し、ヴィクトールはその後に続く予定となっていた。だがネイはセバスティアニに対し、可能ならルッカウへ直接進むとともに、18日にはカラウまで前進するよう命じ、また同じ方角に進むようヴィクトールにも命令を出した。
 彼のこの対応には実は問題もあるのだが、長くなったので以下次回。
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