15日午前10時15分にマクドナルドがブルカウ(ヴェルカウ)から書き送ってきた報告書には、バウツェンへの途上で遭遇した連合軍に関する情報が記されている。彼らは5000から1万の騎兵と同数の歩兵、20門の大砲でフランス軍に抵抗。マクドナルドは捕えた捕虜を尋問したが、彼らはバウツェンで何が起きているかも、プロイセン軍がバウツェンへ来たかどうかも知らなかったそうだ(p200)。
フランス軍から直接情報が得られない以上、連合軍に関するインテリジェンスは引き続き地元住民などを経由したものとなった。例えば14日午前4時にバウツェンを出発した人物は、山上に築かれたロシア軍の宿営地を通過したことについて情報を伝えている。いくつもの連隊やコサック騎兵がおり、またシュプレー河沿いでも防御用の工事が行われていた。皇帝アレクサンドルとプロイセン王の司令部はホッホキルヒにあり、ロシア軍の多くはバウツェンとホッホキルヒ間に宿営していた。そして「あらゆるものが、彼らがこの陣地にとどまろうとしていることを示していた」(p202)という。
同じように農民などからの情報を集めて送っていたのがベルトラン。夜10時にカーメンツから彼が発した情報は以下の通りだ。バウツェンの南東にあるヴァイスナウスリッツからホッホキルヒまで敵軍が展開していること、一昨日にプロイセン王がバウツェン背後の宿営地で閲兵を行い、フランス軍と戦うことになると宣言したこと、バウツェンを撤収した敵が歩兵を連れて戻ってきたこと、ゲルリッツ方面には僅かな護衛をつけた車両のみがいて兵は見当たらないこと、逆にバウツェンの背後からホッホキルヒまでは多数の歩兵と騎兵がいること(p207)。多くは農民たちからの情報であり、信頼度の評価は難しいと思うが、それでも連合軍が足を止めて戦おうとしているとの情報が増えてきた様子は窺える。
15日の夜、スールトの部下で連合軍の偵察に向かっていたブリュンもまた報告書を書いた。彼は戦線を越えて敵の勢力圏まで入り込むことはできていなかったが、敵は足を止めて戦うつもりであり、その数は8万人に達し、その陣地は堅固である「と一般的に信じられている」との情報を伝えた。バウツェンは前哨線に位置し、そこには1万5000人が配置されていた。シュプレー河に架けられた3つの橋は砲台によって守られており、そして敵はこの日もその位置にとどまっている、とも述べている(p208)。
そうした間接的な情報ではなく、バウツェンに向かっていたマクドナルドがようやく連合軍の布陣をきちんと伝えられたのは、15日夜8時半の報告においてだった。バウツェンから大砲の射程2つ分の距離まで迫ったところで、彼はロシア軍とプロイセン軍がそこで合流し、町の両側面と背後に展開している様子を見て取った。プロイセン軍が到着したのは一昨日の夕方であり、同日に皇帝アレクサンドルとプロイセン王はバウツェンから2リュー半ほど後退し、前者はホッホキルヒに、後者はヴルシェンに司令部を置いたという(p200-201)。
だが、目の前に敵がいることは分かっても、彼らの今後の行動についてはマクドナルドにもよく分からないままだったようだ。「脱走兵や捕虜、及び数人の住民は、連合軍が戦おうとしているという点で一致するか、少なくともその噂を聞いている。だが別の者は、彼らが既に兵と大砲をホッホキルヒへと出発させていると断言した」(p201)と、彼は報告の中で言及している。
前年のロシア戦役で多数の馬匹を失ったフランス軍は、1813年戦役において追撃能力の不足に苦しんだという話がよく言われている。だがここまでのやり取りを見る限り、彼らが苦しんだのは追撃だけでなく、偵察能力不足もあったのではないかと思わされる。とにかく連合軍の動向についてしっかりした情報を得ることがなかなかできず、そのために決断が遅くなり、戦闘で主導権を握れなくなる。そういった悪循環が働いているように思えてならない。
いずれにせよマクドナルドらの情報は夜になって書かれたものであり、ドレスデンのナポレオンに届くまでには時間を要した。だがナポレオンはそれを待つことなく、マクドナルドと一緒に行動していたラプラスが戻ってきて状況を説明した後に、すぐ今後の方針を決めた(p203)。15日午後10時、帝国司令部は各部隊に向けて一斉に命令を発した。
ネイとの関連でいうなら、ベルティエはローリストンに対し、ドーバールークを発してホイヤースヴァーダへ向かうよう、そしてネイに対してはハーツベルクからシュプレー河沿いのシュプレンベルクへ進むよう、それぞれ命令を出している(p204)。この時点では第3及び第5軍団に対してのみ、バウツェンへ向かうことを指示していたわけだ。
残る第2、第7、第2騎兵軍団はどうだったのか。ナポレオンがこの日、マクドナルドに対して記した午後10時の命令を見るとそのあたりが分かる。彼は「モスクヴァ公とローリストン将軍はバウツェンへと回り込むよう2日前にトルガウを出発した。(中略)6万人からなる2個軍団の到着により、我々は多大な数的優位を得られるだろう。同時に4万人がベルリンへと行軍する」(p203)と述べている。ベルティエからマクドナルドへ同時刻に出した手紙にも、ネイとローリストンがホイヤースヴァーダへ向かうよう命じられたとの文章があり、他の軍団については言及していない(p204)。
要するにナポレオンはこの時点で、敵主力とベルリンという「二兎を追う」ことを決めたのだ。敵首都か敵主力か、という二者択一問題はナポレオンの後期戦役でしばしば課題として浮かび上がってくるが、この時も彼は同じ問題に直面し、そしてバウツェンの状況がはっきりしなかったせいもあると思うが、両方に掛け金を乗せることを選んだ。後にこの選択が問題を引き起こす。
一方、ネイは前日に皇帝から届いた命令に対する返答をルッカウから出していた(p210-211)。前衛部隊の指揮官ケレルマンは、ルッカウにいたコサック兵がベルリン方面へ向かうのを目撃したが、「プロイセン軍とロシア軍の全てがバウツェンとカーメンツに向かっているのは確実」であり、この動きはトリックにすぎないとネイは見ている。実際、ルッカウの指揮官は午前11頃にカーメンツに向けて出発したとの情報もあったようだ。ネイらのいる方角にはバルクライ=ド=トリーの軍勢が接近しているとの情報もあり、前日にコットブスに到着したと推測されていたが、こちらも確認が必要だという。
レイニエの部隊はこの日の夕刻にシェーネヴァルデへ、翌日にはダーメに到着する予定であり、ヴィクトールとセバスティアニは17日か18日にはルッカウまで到着できると見られていた。一方、連合軍側のビューロー軍団は正規兵4000人と数千の後備兵で構成されており、ベルリンに大規模な部隊はいないのは確実と思われていた。まだバウツェン方面に向かうことを命じられていなかったネイは、皇帝に対して「明日の十分早い時間に第3軍団の全兵士はルッカウに集まり、陛下が示す方角へ向けて進む準備が整うでしょう」と述べている。
同日、第3軍団の左側を移動したレイニエは、途中アンナブルクからネイに報告書を出している(p211-212)。これからレーヴェンを経てシェーネヴァルデへ向かおうとしていること、ヴィクトールとセバスティアニは本日ようやくヴィッテンベルクに到着する見通しであり、明日にならなければ彼らの騎兵が前進してきて連絡を取れるようにはならないであろうこと、などを伝えている。
これに対する返信の中で、ネイは本日中にレイニエがシェーネヴァルデに到着し、明日の早い時間にはダーメ前面に来るだろうから、そこへ命令を送ると述べている。また皇帝からの手紙で「敵がちょうどバウツェンを撤収したばかり」(p212)と伝えてきたことも知らせている。やはりナポレオンからはまだ14日時点の命令しか受け取っていないことが分かる。
この日、ヴィクトールはヴィッテンベルクからベルティエ宛に報告書を書いている(p212-213)。彼の部隊はこの日はヴィッテンベルクまでしか到着できず、16日にはダーメ方面に向かってネイと合流したいと述べている。彼はセバスティアニが誰の指揮に入るのかについて皇帝の意図を知りたいと記し、加えて自分がネイの指揮下に入ることに対する不満も述べるなど、この時点での指揮系統に関する異論をくどくどと書いている。ローリストンやレイニエと違ってヴィクトールはネイと同じ元帥の地位にあり、別の元帥の指揮下に入るのは「帝国元帥の威厳に対する配慮を失うことになる」という理屈だ。彼は結構、面倒な部下だったのかもしれない。
以下次回。
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