バウツェン 5

 承前。ベルトランがかき集めた情報は13日のうちにはナポレオンのところまでたどり着かなかったようだ。FoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813に掲載されている、皇帝が13日夜にネイに宛てて記した命令では、引き続きルッカウへと移動することを求めている(p176-178)。だが日付が変わった14日未明には、連合軍の動きがナポレオンにも分かった。彼は午前3時にネイに向けて改めて命令を出している。
 皇帝はまずブリュッヒャー、ヨルク、クライスト、プロイセン王が10日から11日にかけてケーニヒスブリュックにおり、それからブレスラウ街道をバウツェンへ向かっていることを指摘。「従ってベルリンは疑問の余地なく裸になっており、ビューローの部隊と少数の騎兵のみがこの町をカバーしている。私が命じた移動がさらに必要となった」(P179)と述べ、ベルリン攻撃の重要性を再度主張している。一方で連合軍がバウツェンで戦おうとしている場合に備え、必要に応じて主力軍を強化できるようにするためローリストンの軍団を再集結させることも命じている。
 しかしその後、ベルトランから13日午後9時の報告が届くと、ナポレオンのトーンが変わった。この報告は連合軍がバウツェンを通り過ぎて後退していること、連合軍がオーデル河まで下がる可能性が示されていることなどが特徴で、ナポレオンのネイへの命令にもそれが表れている。時刻は不明だがその命令には「いくつかの報告によると敵はバウツェンを撤収しさらに引き下がるように思われる」(p182)と書かれている。
 ただし、ネイに与えた命令を変えてはいない。ナポレオンはネイに対し、部隊の実働数や分遣隊などについて足元の状況を教えるよう命じているが、彼の指揮下にある各部隊については「ベルーノ公[ヴィクトール]は今日か明日にはヴィッテンベルクに到着すると思われ、またそなたとローリストン将軍は既に示した方角へ進んでいるだろう」(p182)と、既定方針の確認にとどめている。

 もちろん、この日の時点では皇帝の命令はまだネイの下に到着していない。そのため配下の部隊に対してネイの名前で彼の参謀長だったジョミニが同日に発した移動命令(p192-193)には、バウツェンの連合軍に関する言及はない。彼はまずローリストンの第5軍団に対し、14日はシュヴァルツェ=エルスター河沿いのユービガウあるいはヴァーレンブリュックへ向かい、15日にはドーバールークにたどり着くことを求めている。
 レイニエの第7軍団については北方に向かい、アンナブルクを経てイェッセンあるいはシュヴァイニッツに到着し、15日にヴィッテンベルク(ルターシュタット=ヴィッテンベルク)に来る予定となっているヴィクトールとの連携を確立するよう求めている。15日には一部の部隊を残したうえで東に方角を転じ、シェーネヴァルデまで到着。ルッカウに行く予定であるネイの第3軍団と連絡を取るよう要請している。もしシュヴァイニッツでシュヴァルツェ=エルスターを渡河できない場合は、もっと南方を迂回して渡河することも認めている。
 ネイ自身の第3軍団は、ローリストンとレイニエの中間を通ってシュヴァルツェ=エルスター沿いのハーツベルクへ進み、ケレルマンの前衛部隊はシュリーベンまで前進する。彼らは16日にはルッカウを目指す予定だ。またヴィクトールに対しては、ヴィッテンベルクを発したあと、いったんは北東に向かった後で方角を転じ、16日にはダーメか少なくともシェーネヴァルデに到着するよう求めている。
 要するにネイは配下の部隊をエルベから東方へと進め、彼らを東西に並べようとしていた(ローリストンだけは少し南方に展開させる)ように見える。北方のベルリンを狙うか、あるいは東方のシュレジエンに向かうのか、少なくともこの時点の動きからはどちらかに絞っている様子は見えない。彼が同日、ベルティエに書いた報告書(p193)を見ると、彼がこの時点で受け取っていた命令は単にルッカウへ向かえというものだけだったようだ。
 しかし、彼の指揮下にいたローリストンは、南方のミュールベルクやリーベンヴァーダ(バート=リーヴェンヴァーダ)方面に送り出した偵察部隊の報告から、プロイセン軍がバウツェンでロシア軍と合流した可能性が高いと踏んでいた。14日午後9時に彼がネイに宛てて記した報告には、自分たちが向かっている側にはビューローの軍団くらいしかいないと既に指摘されている(p195)。
 この情報はおそらくほとんど時間を置くことなくネイの下に届いた。彼は同日付でハーツベルクから皇帝に宛てて記した報告において、プロイセン軍がロシア軍と合流していること、ベルリン防衛にはビューローの部隊などごく少数しか残っていないことを指摘。現下の状況においてナポレオンが最も避けるべきは微妙な戦闘であり、もし決定的でない戦いを行なえばオーストリアが敵に加わりかねないのだから、ネイをベルリンに向かわせるのではなくホイヤースヴァーダへと行軍させ決定的な戦闘に参加させるべきだと提言している(p196-197)。

 しかしナポレオンの下には、なお連合軍の動向について迷わせるような情報が入ってきていた。例えば13日午前8時にビショフスヴァーダを通り過ぎ、10時にバウツェンに到着したある人物は、皇帝アレクサンドルとプロイセン王が午前10時15分にバウツェンを引き上げて後退したことなどを14日に報告してきた(p182)。ヴュルテンベルクの部隊がプルスニッツから13日付で送ってきた報告では、ロシア軍がバウツェンに砲台を築いていることを認めている一方で、「軍の大半は既にゲルリッツへ後退した」(p187)との一文も入ってる。
 ユロー将軍が13日午後11時半にカーメンツで記した報告書の中身も、明白な答えをもたらしてはいない。そこにはプロイセン軍が12日朝にこの地を去ってバウツェンのロシア軍と合流したこと、連合軍がバウツェンの背後のホッホキルヒに布陣していることを伝えている。バウツェンには強力な後衛部隊のみが残っていると言われているが、それには異論もあるとも書いている(p187-188)。
 積極的にナポレオンに情報を送っているベルトランの言い方も歯切れが悪い。彼が集めた14日の情報によれば、ロシア軍とプロイセン軍はバウツェンの背後に大きな宿営地を構築しており、ロシア軍が左翼ホッホキルヒ方面に、プロイセン軍はバウツェンの右翼背後に集まっているという、後から見ればかなり正確な情報が入っていた。彼らはフランス軍と戦うつもりで、皇帝アレクサンドルとプロイセン王は軍とともにいるとの噂があるということも記している(p189)。
 だが同じベルトランが14日にカーメンツで集めた情報によれば、連合軍がホッホキルヒに向かっており、それ以上先まで行くかどうかは分からないが、ある騎兵にレバウへの道を聞かれた、と証言した住民がいたという。またこの日にバウツェンから来た農民は、軍がホッホキルヒを出発し、ヴァイセンベルクとレバウへ向かっているとも知らせている(p190)。もしこれらの情報が正しいのなら、連合軍は退却を続けているとも判断できる。
 ビショフスヴァーダの向こうまで進出して連合軍と対峙しているマクドナルドのベルティエ宛報告には、農民たちからロシア軍がバウツェンを保持しようとしていること、敵がこの地を強化していることを聞いたと述べられている(p184)。また同日に皇帝宛に書かれた彼の報告書には、自ら行った偵察の結果、「敵が単に同じ陣地を占拠しているだけでなく、そこがかなり拡張され強化されていると確信した」(p185)と書いている。マクドナルドは連合軍との一戦が近いと判断したようだ。しかし彼と一緒に偵察に同行したラプラスは、そこまで確信を持った書き方はしていない(p185)。

 14日付でネイが皇帝に宛てて送った提言は、この後の歴史の推移を見るなら実に適切なものだったと言うしかない。もしこの助言を受けてネイと彼の配下にある部隊(ローリストン、レイニエ、ヴィクトール、セバスティアニ)をまとめて早急にバウツェンに呼び寄せていなたら、史実より早いタイミングでより多くの軍勢を連合軍にぶつけることができ、ナポレオンの望んでいた決定的な勝利を手に入れられたかもしれない。
 だがその判断は後知恵にすぎないとも言える。バウツェン方面で本当に連合軍が足を止めるかどうかが曖昧なままにとどまっていたこの状況で、ネイらの全軍をバウツェンに向けベルリン奪回に伴う政治的な利益を諦めるのは、まだ時期尚早と思ったのだろう。自分の予想が外れたケースも想定して動くのはナポレオンの美点ともいえるが、この時はそれが「二兎を追う」動きになっていたのかもしれない。以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント