「こぼれ話」の続き。ボナパルト将軍が捕まりそうになってかろうじて逃れたという話は、一般的には以下のように紹介されている。
「6月1日[日付は本によって異なる]のある時、ボナパルトはヴァレッジョの村で彼を奇襲したゼボッテンドルフ師団の斥候によってほとんど捕まるところだった。将軍[ボナパルト]は安全な場所にたどり着くまで片方のブーツのみを履いていくつかの塀を越えて逃げなければならなかっった」
Chandlerの"The Campaigns of Napoleon"に書かれている話であり、この経験がボナパルトをして個人的な護衛を強化して"Guides"を編成させるきっかけになったとも記されている。同様の話はここ"http://www.napoleon-series.org/military/organization/frenchguard/c_guides1796.html"にも紹介されている(日付は5月30日になっているが)。
ナポレオニックの定番本となっているChandlerの話は他でも多く引用されているが、残念ながらどのような史料に基づいているのかは分からない。ただ、上のサイトを見れば元ネタがラス=カーズの「セント=ヘレナ日記」であろうことは想像がつくし、Boycott-Brownも"The Road to Rivoli"でそのことを指摘している(日付は5月30日)。
「彼がセント=ヘレナで何年も後に残した記録によると、酷い頭痛に悩まされていたボナパルトはそれを直そうと足湯を使っていたところだったので、ブーツを片足のみ履いて逃げることを強いられたという」
だが、Boycott-Brownはその脚注で以下のように述べている。「面白いことにマセナの回想録編者であるコッホ将軍は、幕僚だった多くの士官にボナパルトがヴァレッジョで捕まりかけたことを聞いたが、誰一人としてその話を思い出せなかったと記している」。ナポレオンが事件の20年ほど後に語ったことに関して、裏付け証言は得られなかったという訳だ。
となるとここはPhippsを確認してみるしかない。彼によるとヴァレッジョでの事件は以下のような経緯をたどったことになる(日付はおそらく5月29日)。
「アディジェ河[実際はミンチオ河だがPhippsはずっとアディジェ河と記している]を渡った後で、ボナパルトと幕僚はヴァレッジョの村からそう遠くないが河からは少し離れた大きな家にとどまり休んだ。彼はマセナ師団によって守られるはずだったが、兵たちは橋が修繕されている間、食事のため右岸にとどまっていた。その日はとても暑く、将軍と部下は一部服を脱いでいた。
突然、大砲と銃の音が聞こえ、逃亡兵が現れて敵が身近に迫ったことが分かった。マルモンは中庭の大門を閉じるため飛び出し、その間に馬が用意され、一団になって現れた幕僚たちが敵対するあらゆる騎兵を突破すべく準備した。
しかしボナパルトはこのやり方を信用せず、慌ただしく服をまとい片足にブーツを履きもう片方は裸足のまま裏口から徒歩で外へ出た。彼はミュラと伴に逃げ出した。彼らは駆け去ろうとしていた竜騎兵に出会い、その馬に乗って橋に到達した」
経緯はナポレオンがセント=ヘレナで語ったものとは多少異なるが、Nafzigerの紹介している話よりはChandlerのバージョンに近い。Phippsは脚注で「コッホはこの奇襲に関する裏付けを得られなかったとしているが、マルモン、ラベル、ドゥヴェルノワの本によって問題は解決した」としている。実際、上に書かれている文章はマルモンの回想録とかなり一致しているようだ。
問題はマルモン、ドゥヴェルノワの回想録はいずれも1850年代の出版とラス=カーズの「セント=ヘレナ日記」より発表時期が遅いこと。ラベルの書いたベシエールの本に至っては20世紀初頭の出版となっている。彼らがセント=ヘレナ日記を見て自分たちの文章をそれに合わせた可能性は否定できないのだ。
一方でNafzigerが紹介していた「間男バージョン」を裏付ける史料はいまだはっきりしない。Nafzigerが引用した本の作者はMarcel Dupontで出版年は1946年。フランスのamazonを見るとナポレオン関連本をたくさん書いているようだから一種のenthusiastかと思われるが、どれほど信頼できる作者なのかは本を見てみないことには判断不可能だ。
なお、PhippsはChandlerの書いている「この襲撃がGuidesを編成する結果になった」という話を否定している。彼によれば軍指揮官は1792年4月25日の命令によって既に護衛中隊を保持していたという。Guidesはボナパルト以前から存在した、という訳だ。
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