バウツェン 4

 前回までは「ドレーザ問題」を中心に取り上げてきたが、今回からはもう少し視野を広げ、帝国司令部とネイとの間のやり取りを中心に追いながらバウツェンの戦いへと至る流れを整理したい。バウツェンでの敗因が本当にネイにあるのかどうかを知るうえでも、会戦当日までに彼がどう動いていたか、FoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813で把握する必要がある。

 リュッツェンの戦い後、フランス軍は大きく2つに分かれて追撃を行った。ナポレオン自身が率いる主力はドレスデンへと前進。第4軍団(ベルトラン)、第6軍団(マルモン)、第11軍団(マクドナルド)、第12軍団(ウディノ)、親衛隊、第1騎兵軍団(ラトゥール=モーブール)で構成され、戦力は11万9000人に達していた。彼らより左翼を進んだネイの部隊は、ネイ直率の第3軍団と、第5軍団(ローリストン)、第7軍団(レイニエ)、第2軍団(ヴィクトール)、セバスティアニ(第2騎兵軍団)で構成されていた。
 フランス軍の司令部と各部隊間のやり取りで最初にバウツェンの名前が出てきたのは5月11日。ドレスデン北東のオッテンドルフ(オッテンドルフ=オクリラ)にいたベルトランからベルティエに宛てて午後11時に書かれた報告書の中だ。そこには「この地を通過したのはたった3000人か4000人のプロイセン兵にすぎず、軍はバウツェンへ退却していると言われています」(p131)とある。
 同日、ナポレオンの下に地元住民らからの情報が上げられた。ツィッタウを出発して6日にバウツェンを通過した人物によると、6日夕の時点では兵はおらず、シュレジエンから来る予備のプロイセン軍3個大隊の到着が予想されていただけだった。町では2000人の負傷者のために病院が用意されていたという。この人物は翌朝7時にバウツェンを出発したが、途上で負傷者を満載した600両以上の車両を目撃したという(p132-133)。またグローセンハインから来た御者は、9日午後5時時点で「バウツェン街道上にいると思われるプロイセン王を探している」(p133)プロイセン軍の大佐に出会ったと述べている。
 続く12日の午前7時、ベルトランは付近に住んでいるドナウ伯の情報として、「ロシア軍はバウツェンへと行軍しているはずだ」(p147)と伝えている。さらに午前8時には「マイセンから来たプロイセン軍はケーニヒスブリュック、ラーデベルク、カメンツ、プルスニッツを通り過ぎてバウツェン方面へ移動しているようだ」(p148)という情報を伝えている。同日午後5時にはある大尉がマルモンに対し、1人の農民の情報として、前日正午までケーニヒスブリュック近くに宿営していた大砲を伴う騎兵と歩兵が、バウツェン街道あるいはホイヤースヴァーダ街道へ向かったとの情報を上げている(p150)。
 13日の時点でも、ナポレオンの対応はまだ慎重だった。彼は同日、ベルティエに与えた命令の中で、ヴィクトール及びセバスティアニの部隊をネイの指揮下に入れ、ベルリンを脅かすよう指示している。ネイに対しては16日にルッカウへ、レイニエはルッカウとヴィクトール軍団の間に、ローリストンは15日にドブリルーク(ドバールーク=キルヒハイン)へ向かうよう伝えており、彼らをバウツェンへ転じるような命令はまだ出していない。そもそもこの時点でバウツェンへ向かうよう命じられていたのはマクドナルドだけで、ベルトランはホイヤースヴァーダ方面へ進むことになっている(p156)。ナポレオンは「敵が何をしているかに従い、15日にはベルリンを占拠するかそれ以外の移動を命じる最終的な決断をするつもりだ」と記していた。
 だがこの日は、連合軍の位置に関する多数の情報が押し寄せてきた。地元住民から得た情報について伝える馬事総監(コレンクール)からの報告がそれだ(ただし日付は入っていない)。ロシア軍の求めに応じて馬車を動かしたこの地元住民は、11日にバウツェンの背後半リュー(2キロ)の場所に「きわめて大きな宿営地と多数の砲兵を見た。そこでは、軍がこの陣地を守ろうとしていると言われていた。プロイセン軍のかなりの大部隊がロシア軍の右翼にいた。(中略)ロシア皇帝とプロイセン王はバウツェンにいると言われていた」(p157)という。バウツェンの戦いにおいて連合軍が布陣していたのはバウツェンの東方であり、この時点で既に連合軍がそこに到着していたことが分かる。
 また同日には駐ドレスデンのフランス公使が送り出した人物からの報告も来ている。「敵は3つの縦隊で行軍していることが確認できた。1つ目はラーデベルクを経てゾラウへ、2つ目はビショフスヴァーダを経てバウツェンへ、3つ目はグローセンハインを経てベルリンへ向かっている。第2縦隊のみが7万人から8万人の増援を受けた。彼らはバウツェンの近く、ホッホキルヒに陣を敷いている」(p157)というのがその内容だ。
 ビショフスヴァーダへ向かっていたマクドナルドから届いた情報は、そこまではっきりしたものではなかった。13日午前7時半にビショフスヴァーダで書かれた報告の中には「ロシア皇帝は軍とともにおり、その後衛部隊はたった1日行程のところにいます。ヴィトゲンシュタインは11日夕に軍の残りとともに出発し、後衛部隊はバウツェンへ向けてその後に追随しています」(p162)との一文がある。また午前10時半の報告書には「敵の哨戒線はバウツェン街道上の森の入り口から近いところにあります」(p164)と書かれている。ロシア軍が退却中なのは分かるが、彼らがどこに集結しているかは分からない。
 同日午後8時にビショフスヴァーダから書いたマクドナルドの報告では「プロイセンがマイセンへの方角を取ったのはボルナでした。ドレスデンまでにこの情報は確認でき、そして実際、彼らはバウツェンの方角へは向かっていませんでした」(p164)と書かれている。またロシア軍については「全ロシア軍はバウツェンへの街道を移動しています。彼らがシュレジエンに向かっていると認められます。上に述べたように、彼らの後衛部隊はバウツェンに、森の入り口にある高地に布陣しています」(p165)とある。プロイセン軍の退路はまだ不明であり、ロシア軍がどこまで後退するつもりかもこの報告からは読み取れない。
 一方、第6軍団の騎兵師団がマイセン北方のグローセンハインに向けて行った偵察では「プロイセン軍のユサール2個連隊が午後2時にグローセンハインを出発し、マイセン前面から戻って来たプロイセン軍の哨兵を集めたうえでバウツェンへと向かった」ことが判明。「これらの情報全ては、プロイセン軍の大半、騎兵、歩兵、砲兵が異なるルートを通ってバウツェンへ向かっていることを証明しているように見える」(p168)と指摘している。
 より決定的な情報を集めたのはベルトランだった。彼は12日に連合軍後衛部隊から脱走した兵の話を、13日午前10時半時点で報告書にまとめている。曰く「ロシア軍とプロイセン軍がすぐにもフランス軍と戦うとの話があった。脱走兵は全兵力が集まるザクセンの都市の名を思い出せなかったが、住民はその町がバウツェンであり、皇帝アレクサンドルとプロイセン王がそこにいると述べている。別の者は2人の支配者が既にオーデル河畔におり、そこに軍を集めて戦うはずだと主張している」(p170)。
 同じくベルトランが13日に送った報告書の中には、ケーニヒスブリュック城の管理人が伝えた「3万人から4万人の、3分の1は騎兵、3分の2は歩兵で、大半がプロイセン軍、そしてコサック騎兵の数個連隊」(p171)がこの地を通り過ぎたという情報や、「ブリュッヒャー将軍は9日に到着し、10日朝に出立した。彼は前夜はグローセンハインに宿泊した。彼はバウツェンへと去った。6000人から7000人とともにいた。どのくらいか正確には分からないが、多くの兵とともにいた」(p171)という宿の主人の証言もある。
 10日から11日にかけてブリュッヒャーらが宿営したと証言しているザクセンの食糧検査官は、クライストやブリュッヒャーらがマイセンとグローセンハインから来て「バウツェンへ向かった。皇帝アレクサンドルは11日もバウツェンにいたと言われている」(p172)と話した。実に30人もの証言が、連合軍の再集結地点がバウツェンであると示しており、バウツェンで車両を徴収された住民たちは敵がバウツェンに陣を構築していることを認めた。
 ベルトランは午後9時の報告書で、バウツェンへと徴集されていた農民たちが今朝になって(馬を奪われたうえで)解放されたと記している。前日までバウツェンで行われていた防御施設構築は今朝になって終わり、バウツェンとビショフスヴァーダ間にいた部隊は前日のうちにバウツェンの背後まで後退し、プロイセン軍はほぼ姿を消したがロシア軍はまだ残っているという。一方で連合軍の士官たちが、オーデル河の背後まで下がるしかないと話していたとの情報もベルトランは伝えている(p173-174)。

 長くなったので以下次回。
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