バウツェン 3

 承前。ドレーザ問題を理解するため、改めて関係者がこの地名に言及した例をきちんと確認しよう。まず最初にこの名前に触れたのはナポレオンだ。FoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813によると、5月18日朝、彼はベルティエへの手紙の中で、「ローリストン将軍及び彼[ネイ]の全戦力を統合し、行軍してドレーザに向かうこと、シュプレー河を越え、敵の陣地を迂回すること、かくしてよい陣を占めることを、私は期待している」(p248)とネイに伝えるよう命じた。
 これを受けてベルティエは午前10時にドレスデンから暗号でネイへの命令書を記した。「彼[ナポレオン]は、ローリストン将軍及びそなたの全戦力を統合して行軍し、ゴッタメルデ近くのドレーザに向かうように(10万分の1の地図ではブレーザ)。かくしてシュプレー河を越えたら、そなたは敵の陣地を迂回することになる」(La manoeuvre de Lützen 1813, p199)というのがその内容。ほとんどナポレオンの命令の丸写しだが、ドレーザの場所について「ゴッタメルデ近く」と説明しているのが大きな違いだ。この命令はベルティエの参謀であるニゴレフスキー少佐(ソモシエラのニゴレフスキーと同一人物かどうかは不明)の手で運ばれたという(Foucart, p249)。
 同じ18日(時間は不明)、ナポレオンはベルトラン宛の命令で、ネイと連携するよう指示している。さらに「歩兵と騎兵の強力な偵察を[ネイが接近してくる]この方角へ送り出し、士官か副官の1人を使い、ただし文書は使わずもしくは暗号で、モスコヴァ公は敵の陣地を迂回し、ドレーザへ移動するよう機動しなければならないと告げよ」(p249)との指示も出した。ベルトランは主力部隊の最左翼におり、ネイが来たら彼らと最初に接触する部隊だったので、この情報を伝えたのだろう。
 これらの命令に最初に反応したのはベルトランだ。18日午後8時、彼は皇帝への返答の中で、命令された通りグルーシー少佐を送り出したことを説明し、「私は彼に、モスクヴァ公が取るべき移動について説明し、彼はノートを取る中で、モスクヴァ公が向かうべき地点としてドレーザの名を書き記しました」(p262)と書いている。
 一方、より遠方にいたネイの反応は遅れた。彼が最初にベルティエ宛に返答を記したのは19日午前11時。ホイヤースヴァーダにいた彼は、「ローリストン将軍から受け取った手紙の写しを閣下に送ります。私の方ではグルーシー氏に質問し、そして彼の回答により、私がドレーザに向かうべきであることが皇帝の意図だと確認できました」(p272)と書き記している。
 そのローリストンからネイに宛てた手紙の写しには、「ベルトラン将軍の幕僚であるグルーシー将軍の息子から、閣下宛でもある陛下からの口頭の命令を受け取りました。陛下は第3、第5、第7軍団と、ベルーノ公[ヴィクトールの第2軍団]及びセバスティアニ将軍[第2騎兵軍団]に、2つのシュプレー河の間にあるドレーザ経由で出撃するよう機動することを求めています。このドレーザは、ヴァイマール協会の地図にはブローザと書かれています」(p273)との文言がある。どうやらベルトラン経由での口頭での指示が、先にネイとローリストンの下に届いたようだ。
 18日午前10時にベルティエから直接ネイに宛てて記し、ニゴレフスキーが運んだ命令が届いたのは、おそらくそのすぐ後だったと思われる。19日正午、ネイはベルティエに対し「閣下が昨日午前10時にドレスデンで私宛に記してくださった暗号化された手紙を、ちょうど受け取ったところです。書かれていた指示に従い、私はあす20日にドレーザの地点へと機動します」(p273)という内容の手紙を記している。2つのルートで指示が出され、それらが僅かに前後して到着したことが分かる。
 これだけではない。ネイはこの19日にさらにもう1つの報告でドレーザに触れている。同日午後9時にマウケンドルフで書かれたナポレオン宛の手紙には、「陛下、ローリストン将軍は今朝、ホイヤースヴァーダから出発してモルトカ経由でドレーザへ向かい、一方でケレルマン将軍が指揮する第3軍団前衛部隊はケーニヒスヴァータ方面へ追随しました」(p274)とある。
 20日になるとネイの参謀長だったジョミニが書いている手紙の中にこの地名が出てくる。時間は不明だが、マウケンドルフで書かれたところを見ると、比較的早い時間に書かれたものではないかと思われる。レイニエ宛の手紙の追伸部で、ジョミニは「[ネイ]元帥はあす[ママ]、ドレーベン[ドローベン]を経てシュプレー河を渡るためライヒナム[シュプレーヴィーゼ]へ向かい、ドレーザへ行軍する計画です」(p303)と書いている。
 続いてネイ自身がケーニヒスヴァータから皇帝に宛てて記した20日午前10時の手紙にドレーザが出てくる。「今朝、兵たちはドレーザへと向かっています。戦うことなく我々が側面及び背後に布陣することを、敵が許してくれるかどうかは分かりません」(p303)と書かれており、ナポレオンからの命令に従って行動していることを強調している。
 次にドレーザの名が出てくるのは、20日のおそらく午後4時に「バウツェン前面の戦場」で書かれたベルティエからネイ宛の命令書だ。「公爵、皇帝はそなたがドレーザに向かい、敵を陣地から追い払い、我々と接触してそこから敵を迂回するためヴァイセンベルクへ向かうよう命じた」(p289)という内容。18日の命令と違って元になるナポレオンからベルティエへの命令は見当たらない。おそらく口頭でベルティエに指示し、ベルティエが文書化したのだろう。
 ネイが20日午後10時にスディアー村からナポレオンに宛てて報告を記し始めた時、この命令はまだ届いていなかったようだ。彼はこの報告の中で、「今朝5時にヴァータ、マウケンドルフ及びホイヤースヴァーダを出発した第3軍団の兵士たちが、陛下の命令に従ってドレーザへ向かったことを、謹んで陛下に報告申し上げます」(p308)と記している。ただこの報告はすぐには送り出されなかったようで、21日午前4時半に書かれた追伸部には「私が昨日、皇帝に送った士官が、今まさに到着しました。彼は私にヴァイセンベルクへ向かうよう命じたメモを渡しました」(p309)との記述がある。
 ドレーザについて最後に記したのもやはりネイだ。21日午後11時、バウツェンの戦いが終わった後にナポレオン宛に記した報告の中で、彼は「陛下の意図に従うため、私は第5軍団とヴァルミー伯[ケレルマン]に対し、21日午前5時にクリックスを経てドレーザとゴッタメルデへ出撃し、全体の攻撃とリンクするためバルートの方角へ転じるよう命じたことを謹んで報告申し上げます」(p328)と書いている。

 以上がフランス軍関係者によるドレーザへの言及の全体だ。これらの記録を見る限り、「ドレーザ本当はブレーザ」説こそが正解であり、つまりナポレオンはブレーザのつもりでドレーザと言っていたのだと思われる。
 ナポレオン自身がドレーザについて残した文章はたった2つしかない。うち1つ(ベルティエ宛の手紙)はLeggiereが指摘していたように、実際にはブレーザを意味していたように読み取れる。実際、ベルティエもネイへの手紙ではこのドレーザが「ゴッタメルデの近く」にあると解説している。一方、ベルトラン宛の手紙は、文章だけ読むのなら「ドレーザ敵の背後」説と辻褄が合うようにも見える。しかしベルトラン経由で情報を受け取ったローリストンが、ドレーザは実はブレーザであるとネイに伝えていたことは見逃せない。
 ローリストンはグルーシーから口頭で命令を聞いている。その内容が「ドレーザ本当はブレーザ」説を裏付けるものだったのだと考える方が妥当だろう。そのように伝令するよう命じたのはおそらくベルトランであり、つまり彼はナポレオンの命令をそう解釈したのである。ベルティエとベルトランという、ナポレオンから直接命令を受けた2人が同じ解釈に到達した点は無視できない。
 ネイがしつこくベルティエやナポレオン宛の報告で「ドレーザ」に触れていたのも理由の一つ。これだけ何度も報告を受けていたナポレオンが、ネイの勘違いに気づかないということがあり得るだろうか。もしネイの言うドレーザがナポレオンの意図と違っていたのなら、後から叱責があってもおかしくはない。だがナポレオンの書簡集を見てもそうした発言は見当たらない。ナポレオン自身の意図と、部下たちの解釈が一致していたからと考えるのが自然だろう。
 そもそも前回も指摘したが、20日夕方の命令を見る限り、敵の背後にあるドレーザまで移動し、それから90度方角を転じてヴァイセンベルクへ進むのはあまりに不自然である。そんな素っ頓狂な命令をナポレオンが出したと考える方がおかしい。やはりドレーザはブレーザだったと見る方がよさそうだ。
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