FoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813に載っている1813年5月20日の、おそらく午後4時頃に書かれたベルティエからモスコヴァ公(ネイ)への命令を見ると、皇帝からの命令として「そなたはドレーザに向かい、敵をこの地点から追い払い、我々[ナポレオンの主力]と接触し、それからヴァイセンベルクへ向かって敵を迂回するように」(p289)と書かれている。見ての通り、どこにも「ゴッタメルデ近く」という文言は見つからない。
ベルティエがこの一言を加えたのは、20日午後4時に書かれネイの所に21日に届いた命令書ではなく、その2日前、18日の午前10時に書かれた命令書である。LanrezacのLa manoeuvre de Lützen, 1813に載っているその命令を見ると、「彼[ナポレオン]は、ローリストン将軍及びそなたの戦力を合わせて行軍し、ゴッタメルデ近くのドレーザに向かうことを望んでいる」(p199)とあり、確かに「ゴッタメルデ近く」という記述が存在する。
以上の問題点を踏まえ、今度は「ドレーザ本当はブレーザ」説を紹介しよう。LeggiereはNapoleon and the Struggle for Germanyの中で、「時間的な順序と、ナポレオンがベルティエ宛に書いたネイへの命令で使われている言葉に基づくなら、彼[の命令]がブレーザを意味していたのは明白」(p321)だと述べている。
他に「ドレーザ本当はブレーザ」説を支持している事例としては、例えば1904年出版のCampagne de 1813があり、同書では「ゴッタメルデ近くのドレーザを示したナポレオン」(p204)という言い回しが出てくる。Lanrezacの本でも「第3及び第5軍団をドレーザ(ブレーザ)に向かわせる18日付の命令」(p203)という言葉があり、こちらも同じようにブレーザこそが命令に記された場所だとみなしている様子が窺える。
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