バウツェン 2

 承前。バウツェンの戦いにおけるネイの行動に関連し、「ドレーザ敵の背後」説について前回は紹介したが、それへの反論を見る前に彼らの言い分のうちツッコミどころになりそうな部分をチェックしておこう。まずPetreは、会戦2日目の5月21日にネイが受け取った命令に記されているドレーザについて、ベルティエが「ゴッタメルデの近く」と付け加えたことを間違いだと指摘している。だが実際にこの日、ベルティエから来た命令文には実はそんなことは書いていない。
 FoucartのBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813に載っている1813年5月20日の、おそらく午後4時頃に書かれたベルティエからモスコヴァ公(ネイ)への命令を見ると、皇帝からの命令として「そなたはドレーザに向かい、敵をこの地点から追い払い、我々[ナポレオンの主力]と接触し、それからヴァイセンベルクへ向かって敵を迂回するように」(p289)と書かれている。見ての通り、どこにも「ゴッタメルデ近く」という文言は見つからない。
 ベルティエがこの一言を加えたのは、20日午後4時に書かれネイの所に21日に届いた命令書ではなく、その2日前、18日の午前10時に書かれた命令書である。LanrezacのLa manoeuvre de Lützen, 1813に載っているその命令を見ると、「彼[ナポレオン]は、ローリストン将軍及びそなたの戦力を合わせて行軍し、ゴッタメルデ近くのドレーザに向かうことを望んでいる」(p199)とあり、確かに「ゴッタメルデ近く」という記述が存在する。
 ベルティエがこの命令を出すきっかけになったのが、18日午前に皇帝からベルティエへと出された命令であることは間違いないだろう。FoucartのBautzenに掲載されているその命令を見ると、「ローリストン将軍と彼[ネイ]の全戦力を合わせて行軍し、ドレーザに向かうことを私が望んでいると(中略)モスコヴァ公に知らせよ」(p248)とある。ナポレオンが「ドレーザ」としか言わなかった部分について、ベルティエが後から一言付け加えたのは事実だ。でもそれは、Petreが言うように「21日に届いた命令」の中で書かれていたことではない。
 もう一つの「ドレーザ敵の背後」説の問題点は、20日に書かれたベルティエの命令に含まれている、ドレーザから敵を追い払った後で「ヴァイセンベルクへ向かって敵を迂回するように」と書かれた部分だ。地図を見れば分かるのだが、ネイがシュプレー河を渡河したクリックスから「敵の背後」に位置するドレーザへと向かう場合、その方角はおよそ南南東、距離は直線で10キロある。だが、そのドレーザからさらにヴァイセンベルクへ向かう場合、今度は東北東へ直線で7キロの場所へと進まなければならない。つまりドレーザまで来たところでいきなり90度の左旋回を行う必要がある。
 そうではなく、「ブレーザ」経由でヴァイセンベルクへ向かう場合はどうだろうか。クリックスからブレーザは東南東へ直線で2キロほどの距離になり、続いてブレーザからヴァイセンベルクは南東へ10キロちょっとだ。ほとんど方角を変えることなく、かつ短い距離で最終目的地であるヴァイセンベルクまで到着することができる。Peterはブレーザ経由の道筋に文句をつけていたが、彼が主張する「敵の背後」のドレーザを経由する方がよほどおかしなルートになってしまうのだ。

 以上の問題点を踏まえ、今度は「ドレーザ本当はブレーザ」説を紹介しよう。LeggiereはNapoleon and the Struggle for Germanyの中で、「時間的な順序と、ナポレオンがベルティエ宛に書いたネイへの命令で使われている言葉に基づくなら、彼[の命令]がブレーザを意味していたのは明白」(p321)だと述べている。
 18日午前のベルティエへの命令には、ドレーザに向かうと記した後に「かくしてシュプレー河を越えたところで、彼は敵の布陣を迂回することになるだろう」(Foucart, p248)とある。これはブレーザ到着後にネイがシュプレー河を渡り、それから敵を迂回するということを意味している。だがドレーザがブレーザでないとしたら、「元帥は村に到着する前に、まずシュプレーを渡り、それから敵の陣地を迂回しなければならない」(Leggiere, p321)。ナポレオンの文章を順番に読み解いていく限り、彼の言うドレーザがブレーザであることは間違いない、というのがLeggiereの見解だ。
 この説明には1つ弱点がある。地図を見る限り、ネイはドレーザ到着より前にシュプレーを越えなければならないように見えるのだ。ナポレオンは(1)ドレーザ(ブレーザ)到着(2)シュプレー渡河(3)敵を迂回――という順番を想定していた、というのがLeggiereの説だが、地図に従うなら(1)シュプレー渡河(2)ブレーザ到着(3)敵を迂回――という順番にならなければ辻褄が合わない。それでも「ドレーザ敵の背後」説の場合の(1)シュプレー渡河(2)敵を迂回(3)ドレーザ到着――という順番よりはマシではあるが。
 そうではなく、フランス軍がブレーザを「シュプレー河より手前にある」と間違えて認識していた可能性も存在する。実はシュプレー河はクリックスの少し下流で「大シュプレー河」「小シュプレー河」の2つに分かれている。ブレーザはどちらの河よりも東側、つまり連合軍が布陣している側にあり、だからブレーザに到着するには最初にシュプレーを渡らなければならないのは同じはずだ。
 しかし、5月19日にローリストンがネイに宛てて記した手紙を見ると、少なくともローリストンはそう認識していなかったことが分かる。彼はこの手紙の中で、「陛下は第3、第5、第7軍団、ベルーノ公[ヴィクトール]及びセバスティアニ将軍に、2つのシュプレー河の間にあるドレーザを経て出撃するよう機動することを望んでいる」(Foucart, p273)と記している。彼はドレーザ(ブレーザ)が「2つのシュプレー河」、つまり大シュプレー河と小シュプレー河の間にあると思っていたのだ。だとすれば、ブレーザ到着後に改めてシュプレー河を渡らなければ、連合軍陣地の背後に回り込めないことになる。Leggiereがそこまで考えてこの主張をしていたかどうかは分からないが。
 もう一つ、どちらかと言えば「ドレーザ本当はブレーザ」説を推しているのがこちらのサイト。20日の命令では「ヴァイセンベルクへの前進という文脈の中でドレーザに言及」されていることを踏まえ、このドレーザがブレーザだと解釈すれば「ネイはそこからヴァイセンベルクへと南東へ移動を続けることができる」と指摘している。上にも書いた通り、この方が自然な動きだ。ローリストンの手紙の中に「このドレーザはヴァイマール協会の地図ではブローザと書かれている」(Foucart, p273)ことも、ドレーザ本当はブレーザ説を補強する材料になるという。
 ただしこのサイトでは、ナポレオンがもっと南方の「敵の背後」にあるドレーザを心の中で思い描いていた可能性までは否定していない。実はナポレオンは18日付のベルトランへの手紙において「モスクヴァ公は敵を迂回するよう機動し、ドレーザへと移動しなければならない」(Foucart, p249)との文章を記しており、これを素直に読むならナポレオンは(1)敵の迂回(2)ドレーザ到着――という順番でネイが行動することを期待していた、と解釈できる。「ドレーザ敵の背後」説を裏付けるような記述、と言えなくもない。
 他に「ドレーザ本当はブレーザ」説を支持している事例としては、例えば1904年出版のCampagne de 1813があり、同書では「ゴッタメルデ近くのドレーザを示したナポレオン」(p204)という言い回しが出てくる。Lanrezacの本でも「第3及び第5軍団をドレーザ(ブレーザ)に向かわせる18日付の命令」(p203)という言葉があり、こちらも同じようにブレーザこそが命令に記された場所だとみなしている様子が窺える。

 さて、ここまでナポレオンの命令の中にあったドレーザが、地図にある2つの「ドレーザ」のどちらに当たるかについて双方の説を紹介してきた。どちらも論拠があり、しかしながら問題点もある。より詳しく判断するためには、バウツェンの戦いにおいてこの「ドレーザ」というセリフをいつ、誰が、どのように語ったかを改めてきちんと並べ、評価し直す必要があるだろう。それについては以下次回で。
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