バウツェン 1

 1813年の春季戦役は、ナポレオン戦争の中でもあまり詳細に取り上げられることのない戦役の一例だ。代表的な戦いにはリュッツェン(5月2日)とバウツェン(5月20~21日)があったのだが、日本語wikipediaでは前者はグロースゲルシェンの戦いという名称で項目が存在するものの、後者は不在。英語wikipediaのBattle of Bautzenも内容はかなり薄い。さすがに当事者であるフランス語ドイツ語はそれより長いが、詳細を極めているというほどではない。
 前にマイナーな戦闘として取り上げたソモシエラの突撃の場合、文字で説明したサイトはあまりなかったものの、動画ではそれなりに題材として取り上げられていた。だがリュッツェンやバウツェンにはそうした動画も見当たらない。かろうじてボードゲームのプレイ動画を兼ねたものが見つかるくらいだ。
 大規模な会戦の多かったこれらの戦いがマイナーな扱いになっている理由はよく分からない。BodartのMilitär-historisches Kriegs-Lexikonによればリュッツェンは両軍合わせて23万7000人(p449)、バウツェンは26万4000人(p450)と、いずれも規模的にはこの時代の中でもかなり大掛かりな戦いだった。ナポレオンがいない戦場がマイナー扱いされることは珍しくないが、これらの戦いはナポレオンが自ら率いている。そういえば私のblogでもこの戦役を取り上げることは極めて少ない。どうもナポレオニックマニアの間でも取りこぼされやすい戦役のようだ。

 今まで取り上げたことがないから、というわけではないが、今回はバウツェンの戦いについて調べてみたい。この手のものだとまずはこちらで取り上げられているかどうかをチェックするところから始めるのだが、1813年戦役の連載(p118-148)を調べると残念ながら4月頃までしか紹介されていないことが分かる。
 だがバウツェンの戦いについて調べる場合は、実はそれほど困らない。少し探すだけで、Foucartの書いたBautzen (Une bataille de deux jours) 20-21 mai 1813という、1897年に出版された本が見つかるからだ。Foucartは以前も取り上げたが1806~07年のプロイセン=ポーランド遠征について色々と詳細な本を書いている。さらに彼はバウツェンの戦い後の追撃について記した書物も1901年に出版している
 連合軍側の史料は、通史関連がいくつか見つかる。例えばクラウゼヴィッツの記したHinterlassene Werke des Generals Carl von Clausewitz, Siebenter Bandのp245-265にはバウツェンの戦いが記されているし、ロシアのBogdanovichが記したGeschichte des Krieges im Jahre 1813, Erster Band. - Zweiter Abschnittのp49-82も同じくバウツェンを取り上げている。ただ今回はフランス側の動向について調べたいので、連合軍側の史料は取り上げない。
 調べるのはバウツェンの戦いにおけるネイの動向だ。実際にはネイの第3軍団に加え、彼と連携して行動していたヴィクトールの第2、ローリストンの第5、レイニエの第7、セバスティアニの第2騎兵軍団がどこをどのように動いていたかについて追っていく。というのも、バウツェンの戦いで決定的な勝利を得られなかったのがネイのせいである、という指摘を時折見かけるため。例えばNapoleon: The End of Gloryには「ブリュッヒャーの背後を遮断することにネイが失敗」という指摘があるし、こちらではネイが肝心な時に足を止め、「前進を再開した時には連合軍の退路を遮断するには遅すぎた」と書かれている。
 ネイはリュッツェンの戦い後、独立した部隊を率いてナポレオンとは別行動を行い、バウツェンの戦場で再び主力と合流するように動いていた。これがかなり困難な任務であったことは間違いなく、例えばLützen & Bautzen 1813では、ネイが「自らのイニシアチブを使って連合軍の背後に入り込むことに失敗した」ことを認めつつも、「ネイが最良の行動を定めるのは難しかった」ことも指摘している。
 果たしてネイはこの戦いにおいて何を求められ、それに対してどのように行動していたのか。それを知るうえでは会戦から遡って彼がどんな命令を受け、どう動いていたのかを確認する必要があるだろう。だがその詳細を調べる前に、まず1つの問題を確認しておきたい。ドレーザ問題というやつだ。

 バウツェンにおけるネイの行動について、「ドレーザ」Drehsaという地名を巡る勘違いが彼の失敗の原因になっているという説が存在している。分かりやすい一例がPetreの書いたNapoleon's Last Campaign in Germany, 1813だ。バウツェンの戦いの2日目となる5月21日、彼はベルティエから命令を受け取った。「ドレーザから敵を追い払い、それからヴァイセンベルクへ行軍し、敵を迂回せよ」(p125)。
 実はフランス軍が使っていた地図にはドレーザという地名が2ヶ所存在していた。1つは実際にはブレーザ(Brösa)という村で、ネイがシュプレー河を渡河したクリックス村の東方2~3キロの場所に存在していた。もう一つのドレーザ村はバウツェンの東方10キロ強の場所にあり、ネイがいたクリックス村からホッホキルヒへ向けてまっすぐ南下する途上に存在した。こちらで当時の地図を閲覧できる。
 Petreは「ベルティエに対するナポレオンの命令は、何の説明もなく、単にドレーザと述べているだけだった」(p125)と指摘。連合軍の退路上にあるドレーザこそナポレオンが意図していた場所ではないかと見ている。だがベルティエは、ナポレオンの命令を伝える際にドレーザの場所を「ゴッタメルデ[グッタウ]の近く」(p126)と書いていた。グッタウはブレーザのすぐ隣に存在しているため、この文章を受け取ったネイはドレーザではなくブレーザへと向かった。「(クリックスからブレーザへの)短い線を延ばしても、ネイは主要攻撃と平行の線に沿ってヴァイセンベルクより北方の地点にしか進めない」(p126)ため、敵の背後には回り込めない、というのがPetreの見解だ。
 Petreが論拠の1つに挙げているのがジョミニだ。ナポレオンの一人称での語りという体裁を取っているVie politique et militaire de Napoléon, Tome Quatrièmeの中でジョミニは、「そこから左斜め[ママ]に進み、ホッホキルヒの鐘楼と同じ意味になるドレーザの方向へ向かうよう、彼[ネイ]に指示すべきだった」(p311)と記述。さらに脚注で「私[ナポレオン]は5月18日の命令でこのドレーザの地点をきちんとネイに示していた。だがそれは戦場からは曖昧すぎ、遠すぎた」とも書いている。
 彼らだけではない。Yorck von WartenburgのNapoleon als Feldherr, Zweiter Theilには、18日朝にナポレオンからネイに出された命令において「彼[ナポレオン]は戦場の目標地点として、連合軍背後のドレーザを示した」(p235)とある。DodgeのNapoleon; a history of the art of warでも、2つあったドレーザのうち「ナポレオンが一撃を加えたいと望んでいた、敵が退却するに違いない2つの街道の間にあった」(p58)方こそがネイに示した目的地だと記している。
 だがこれらの見解については異論もある。そもそもPetre自身、「多くの著者は、ベルティエが『ゴッタメルデ近く』と付け加えたことが正しかったと見なしている」(p126)ことを認めている。なぜそうなるのかについては、長くなったので以下次回。
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