神聖でもローマでも帝国でも

 前に1796年戦役における帝国クライスとフランス共和国との関係について、当時の休戦条約の中身を紹介したことがあった。今回紹介するのはヴュルテンベルク公とフランスの休戦協定、及び戦役途中で連合軍側から部隊を引き上げたザクセン選定侯が出した布告を史料として紹介する。

「ヴュルテンベルク公とラン=エ=モーゼル軍指揮官モロー将軍との間で締結された休戦協定
 1 ヴュルテンベルク公は彼の分担として[対仏]同盟に提供している兵を即刻引き上げる。この兵たちは引き続き武装でき、公は彼らを領地内の治安を維持するために適当と考えるように雇うことができる。
 2 フランス兵は将来は公国内の町を自由に通過できる。兵たちはこの条項により町内のどこにも行くことができ、住民のどの家にも、あるいは兵舎でも状況に応じて宿営することもできるが、常に住民に大しては危害をもたらしてはならない。
 3 指揮官は軍事作戦を継続するため兵と伴に公国を通過するに際し、人々と財産に敬意を払う。彼はまた宗教及びこの国の民間法及び軍法を傷つけることのないよう必要な注意を払う。
 4 もし兵が公国の通過や滞在を続け、穀物、パン、肉、秣、カラスムギ、木材、車両、馬匹などの必需品を地域から集める必要がある場合、将軍または兵站担当者からの要望であればこれらの品物は拒否されない。ただしそれらはヴュルテンベルク公が軍に供給する食糧や現金の負担分と計算して受け取られる。個人から購入される他のあらゆる品物は軍の会計係から現金で支払われる。休戦の日以降にデュシェーヌ将軍麾下のフランス兵に提供された品目は、要求される食糧の負担分から差し引かれる。
 5 ヴュルテンベルク公はラン=エ=モーゼル軍の会計係に対し、フランスの通貨で計400万を以下の方法で支払う――10日以内に100万、続く10日間に200万。残る100万は休戦締結から2ヶ月以内に支払う。
 加えてヴュルテンベルク公は食糧と他の物資を、個人的な取り決めに従い提供する。
 6 ヴュルテンベルク公はフランス共和国との和平交渉のため、パリの総裁政府に全権大使を送る。
 7 公の特別保護下にあるエスリンゲンとレンティンゲン及びドワガー公女に属するジンドヒンゲンとベヒンゲン領はこの休戦に含まれており、その結果彼らの歳入の割合に基づいた分担金の要求に従うことになる。
 8 ヴュルテンベルク公が、フランス共和国に対して交渉を望むであろうシュヴァーベン・クライス諸国の名において成した交渉に関する提案について、指揮官は全てに耳を傾ける。
 バーデンの司令部、収穫月29日、フランス共和国暦4年(7月17日)
(サイン)モロー
 ラン=エ=モーゼル軍指揮官」
A Collection of State Papers Relative to the War Against France"http://books.google.com/books?id=Gwqp14DN7agC&pg=PR5&dq=circle+suabia&as_brr=1" i-ii

「ドレスデン、7月30日
 ザクセン選帝侯殿下は現下の戦争に主な交戦国としては参加していない。帝国の構成国として、そしてドイツ憲法が彼に課している義務を果たすという立場のためだけに参加している。そして選帝侯殿下は、この荒廃した戦争による惨状が終わるのを見る望みに強く印象づけられ、しばしばドイツ議会における投票や他の手段によって和平の推進を試みてきた。これは広く知られた事実である。
 現在の状況と選帝侯殿下の予防策に基づく対応は、彼が公式に明示していた原則と一致する。彼はいかなる点でもそれから逸脱することはない。そして彼の兵を、いまや戦場に近接している彼の領地及び上ザクセン・クライスの国境線に集めるという決断は、彼の動機に関するいかなる誤解をも防ぐだろう。
 しかしながら、疑いなくこの主題にとどまる目的で、選帝侯殿下はここにはっきりと、この兵の集結は彼と他の上ザクセン諸国の領地を外国の暴力から守る以外の目的はないと宣言することが適当だと考える。
 彼らはもちろん防御のための手段でしかなく、国境線を越えて他のどんな国家に対しても、そして殿下が筆頭となっている既述クライス[上ザクセン]のどの国に対しても、攻撃的に行動する意図はない。
 1796年7月26日、ドレスデンにて
 ザクセン選帝侯殿下の寛大で特別な命により」
A Collection of State Papers Relative to the War Against France"http://books.google.com/books?id=Gwqp14DN7agC&pg=PR5&dq=circle+suabia&as_brr=1" p59-60

 こんな感じで神聖ローマ帝国軍を構成する部隊が次々と脱落していったのがこの年の戦役だった。オーストリア側にとっては「やってられない」という気分だっただろう。

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