彼の解説によるとScheidelは帝国形成に必要な2つのファクターがあるとしている。中央の強さと周辺の弱さだ。古代ローマといえば何と言ってもその無尽蔵ともいえる人的資源の充実ぶりがよく知られている。彼らは単純に周囲の国々より大きな軍を動員することができ、そのために何度敗北してもすぐに復活してきた。
ローマは移民に対して市民権を与えることに寛大であり、そのためローマ市民自体が簡単に増えていった。次に彼らの同盟システムによって、イタリアの他の都市からも動員することができた。最後に、軍務に就いたローマ市民の割合自体が極めて高かった。レビューの5ページ目には様々な時代の動員率が載っているが、
共和国時代のローマの動員率は5.3%と、軍隊国家として知られていた18世紀のプロイセンやスウェーデン並み。それに対し帝国時代のローマはわずか0.6%と、清帝国の全盛期などと並んでかなり低い水準になっている。Koyamaはローマ共和国時代の仕組みを「犯罪組織」(p4)と呼んでいる。
だがそれだけでローマが帝国になれたわけではない。周辺諸国の弱さも重要なファクターだった。ローマは当時の世界において、文明の中心だった地域(肥沃な三日月)からは遠く離れた周辺地域であったイタリア半島に位置していた。彼らの主要な敵だったカルタゴ、マケドニア、セレウコス朝、プトレマイオス朝は、いずれもローマのような動員力は持っていなかったし、まして西欧の部族社会などはローマの敵ではなかった。
加えてローマが第一次ポエニ戦争で地中海の覇権を握ったことが大きかった。この時期、地中海の制海権を握るための競争はかなり緩かったが、ローマの没落後は競争相手が多く、トラファルガー海戦で英国が覇権を握るまでは常に複数の国家が地中海を巡る競争を続けていた。ローマの幸運はもう一つ、彼らが領土を広げた時期が気候に恵まれていたことだ。当時は南欧と北アフリカの生産力が後の時代に比べて高く、それが地中海帝国の成立に寄与した。
ローマ以降にローマのような帝国が現れなかった要因についても、このレビューはいくつか紹介している。税収システムが失われたことや、君主と貴族たちの関係、宗教の及ぼした影響などがそれだ。もしローマのような帝国が再び現れていたなら、それはビザンツのように帝国が経済を規制し、教会を運営するようなものになっており、中世西欧で見られたようなコミューンやギルド、議会のようなものは生まれなかっただろう、とScheidelは述べているそうだ。
欧州と他地域の差については、他にも
地理的要因や
ネットワークがらみの分析など、Koyamaは色々な話を取り上げている。Andradeの唱える
「宋戦国時代」にも言及しているほどだ。欧州による植民地拡大も、欧州内の競争があったからこそ加速された面があるそうで、Scheidelは欧州の継続的な分断こそが持続的経済成長の要因になったと見ているそうだ。
レビューの最後にKoyamaはScheidelが使用したCounterfactual(反事実)について言及している。言い回しが堅苦しいが、要するに「歴史のif」を使って議論を進める方法だ。Scheidelはこの方法を使って、
ローマ崩壊後にその後継国家が生まれた可能性は小さかったと議論しており、彼の主張を裏付けるうえで重要な手法となっている。
だがKoyamaによれば、多くの歴史家はこの方法を嫌っているという。コントロール・グループを設定し、それとの比較を通じて仮説の検証を進めるという手法は、経済学者や政治学者の間では珍しい手法ではないが、歴史においては「コントロール・グループ」の設定が難しいため、安易にこの方法を使うことができない、という問題が背景にある。Scheidelはこの問題をクリアするために、「最小限の歴史の書き換え」及び「二次的な影響の限定」(p22)といった制限をつけて議論をしている。ただこの方法はかなりテクニカルであり、Koyamaは「科学というよりアート」だと指摘している。それでもScheidelの取り組みに対するKoyamaの評価は全体としてとても高い。
Koyamaに関しては、特に地理的要因について別の研究者と一緒に取り組んだ論文があり、それが奇しくもScheidelの主張を支持する内容になっているのだが、これについては後で取り上げよう。代わりに今回はもう一つ、以前紹介した
Currieらの論文を使って、Scheidelの主張がどの程度、史実に沿っているのかを調べてみたい。
彼らの論文の
Online Supplementary Informationには、紀元前1500年から紀元1500年まで、アフロ=ユーラシア地域で面積10万平方キロ以上のサイズを誇った帝国の一覧が載っている(APPENDIX 1)。とはいえ10万平方キロは決して大きくない。いや、その水準を100万平方キロまで引き上げても、例えばエジプトの各王国は平気でこのサイズを超えてくる。ローマと同様の帝国について考えるなら、もっと大きな帝国を基準に選んだ方がいいかもしれない。
例えば200万平方キロを基準にしよう。この場合、中国では「前漢」「後漢」「西晋」「東晋」「隋」「唐」「北宋」「金」「南宋」「元」「明」がその基準に達しており、また対象外の時期では「清」もその中に入る。中国ではくり返し、帝国が何度も生まれてきたと見ることができる。一方、西欧はローマ帝国以降で最も大きな国がカロリング朝(109万平方キロ)でとどまっている。16世紀以降になると海外植民地を含めてもっと大きな帝国も出てくるが、欧州内ではこのあたりが上限となる。
問題はこのユーラシアの両端「以外」の地域だ。欧州が例外だと主張するためには、他の地域で大きな帝国が何度も生まれているという事実が確認されなければならない。まずは「肥沃な三日月」を中心とした中東地域を調べてみたところ、200万平方キロ以上だったのは「メディア」「アケメネス朝」「セレウコス朝」「パルティア」「ササン朝」「ウマイヤ朝」「アッバース朝」「サッファール朝」「大セルジューク朝」「イル=ハン国」「ティムールの帝国」と、これまた大きな帝国が多数打ち立てられている。それ以降も
サファヴィー朝が存在していた。
インドはどうだろうか。こちらは亜大陸の面積が300万平方キロちょっとと限定されていることもあり、生まれた帝国は「マウリヤ朝」「クシャーナ朝」「ゴール朝」に限られる。ただこの論文より後の時代には
ムガール帝国が最盛期に400万平方キロの、
マラータ王国が250万平方キロのサイズの国家を打ち立ててはいる。また200万平方キロには及ばないものの、100万平方キロを超えた国なら
ラーシュトラクータ朝と
デリー=スルタン朝がいる。西欧よりは帝国向きの地域だったと言えるだろう。
これ以外に中央アジアのステップ地帯、紀元後になってサイズの大きな帝国ができるようになったポントス=カスピ海地域付近(
ルーシや
ジョチ・ウルス、
ポーランド=リトアニア)でも、複数の大きな国家ができるようになっている。西欧以外で200万平方キロ以上の帝国がほとんど生まれなかった地域としては日本や東南アジアの大陸部分があるが、そもそもどちらもそんなに面積が大きくない地域である。
以上、確かにこうやって確認すると、欧州特に西欧が大きな帝国の生まれてこなかった珍しい地域であることは確かだ。中国が常に帝国に支配されてきた特殊な土地だったというより、西欧こそが例外的に帝国が生まれることなく、複数国家の多元的支配が続いた、アフロ=ユーラシアでも特殊な地域だったと考える方が辻褄が合うだろう。
ではなぜ西欧がそのような特殊な歴史をたどったのか。そのあたりについて、後程Koyamaも参加している論文に基づいたエントリーを上げたい。
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