米国における反乱や内戦の懸念が広まっているが、今回はそこまで悲観するのはおかしいという指摘を紹介しよう。最近のTurchinらが割と簡単に内戦とか革命の話を持ち出すことに対して
Scheidelが異論を唱えていることは以前にも述べた が、同じように内戦の可能性について過大評価されていると批判しているのが、コロンビア大のリサーチフェロー、Richard Hananiaだ。
彼のツイート を見ると、政治的な暴力に関する想定が間違っている、ということになる。
前に書いた記事 では、政治的に対立する双方の党派(左右の過激派)が互いに憎悪しあうことが政治的暴力の拡大につながると理解している。同様の内容を記しているのが
Tips for avoiding a civil war という記事。双方の「部族」の中でも極端な連中の行動がバイラルメディアを通じて拡散され、それがまるで「あいつら」の標準的な行動のように見えるようになり、それがさらに相互の憎悪を煽るという点を指摘している。
内戦に関する学者たちの中にも、そうした議論をしている者がいるという。Hananiaによればそういった苦情や不平(grievance)といったものに原因を求める学説がある一方、別の原因を主張する者もいる。その原因とは機会(opportunity)だ。前者のモデルによれば「人々が政府や他の市民たちに対して武器を取るほど頭にきている時に内戦が起きる」。一方、後者のモデルなら「暴力はもともと遍在しており、政府が弱体化すると常にそこにいる犯罪者やデマゴーグらが、事実であれ想像上のであれ、不平を利用する」と説明する。
モデルの違いは単なる学説の違いではなく、内戦に対応する政策の違いにもつながる。機会モデルなら「法と秩序」に重点を置き、暴力の脅しに対して直接戦うことが重要になる。政府の弱さこそが原因なのだから、政府は弱くないことを明確に見せつけるのが最も効果的、というわけだ。一方、不平モデルならより根源的なアプローチ、つまり人々の不満を解消することを重視する。
面白いのは、どちらの学説が正しいかについて定量的な分析が紹介されていることだ。それによると正しいのは機会モデルだ、という結論になる。内戦を予想するうえで役に立つのは弱体な国家、政治体制の移行期、政府のコントロールを困難にする地理的要因など。一方、あまり役に立たないのが独裁、差別、人権侵害、民族の分断など。そうした定量的研究の一例が、1945年から1999年までの世界各地の内戦について調べた
Ethnicity, Insurgency, and Civil War という論文だそうだ。
また、
Greed and Grievance in Civil War という論文も同じような結論を導き出している。混乱が機会を生み出し、さらに天然資源の存在が反乱を「割に合う」ものにしているという。こちらの論文は1960-1999年が対象だが、不平の方は説明能力が低く、むしろ「反乱組織が直面している制約」の方がモデルとして優れているという。例えば経済力の低い地域ほど動乱の可能性が高いが、それは財政力に乏しい政府の存在が理由だと考えられるし、一次産品に頼った不安定な経済を持つ国家も同様に反乱リスクが高くなる。逆に政治的権利や格差は紛争リスクに何の効果ももたらさないという。
内戦に陥った国家が、しばしば都市部を押さえながらも地方を反乱軍に制圧されてしまうのも、基本的には政府の能力の問題だそうだ。別に都市住民がより憎悪が低く満足度が高いというわけではなく、単に政府の力が弱いところほど暴力が表出しやすいため。内戦という切り口で見るなら、国民の不満や憎悪よりも、具体的な暴力行為を抑制する政府側の能力の方が重要だ、という指摘だ。
米軍は、独裁者を排除し人々の生活を向上させれば彼らは米兵を歓迎するだろうと思っていたが、実際にはギャングや民兵に暴力を行使する機会を与えただけだった。Hananiaはイラクやアフガンにおける米の経験こそ、不平モデルが間違っている証拠だとしている。「心と精神」戦略は、いわば大衆に焦点を当てた大衆中心の戦略である。だが実際に採用すべきなのは、有力者に焦点を当てたエリート中心の戦略だった、とHananiaは述べている。
さらにHananiaはTurchinの議論についても「基本的にもう1つの不平モデル」であるとして批判している。彼はTurchinのデータの使い方にしても
「p-hackingではないか」 と見ており、Turchinが主張する不安定イベントの増加についても、例えば暴動やそれに伴う死者数、経済的損失などが必ずしも増加していないと疑問を呈している。一方、Turchinは
医療の発展が死者数の減少をもたらしていることを指摘 。このように仮説を巡る議論が盛り上がるのはいいことだ。
個人的にはTurchinが最近、内戦だの革命だのという言葉を言いすぎているのが、こうした反論を招いている要因だと思う。基本的にTurchinの考えは、
「銀杏モデル」 を見ても分かるように、危機局面の後の展開は非常に多様であり得るというものだ。別に内戦や革命が必然だとは思っていないはずなのだが、それでも最近はそういう言い回しが増えており、結果として「内戦の恐れはそれほど存在しない」というツッコミを受けることになっている。
Turchinのモデルが不平モデルであることは否定できない。何しろ彼もGoldstoneも、大衆の困窮化やエリート内競争の激化といった問題をクローズアップしている。だが彼らのモデルは、そもそも内戦の発生をもたらす直接的な原因を探るところに力点を置いているわけではない。財政悪化などの政府弱体化イベントは色々な時に生じているのに、なぜそれが革命につながる時とつながらない時があるのか、という疑問が、彼らの理論の根っこにある。
ルイ14世もルイ16世も同じように財政破綻に直面したのに、それが革命につながったのは後者の時だけ だ。それに対しHananiaの指摘は内戦につながる要因を探るというアプローチを取っているが、内戦につながらないケースについてどこまで分析しているのかが分からない。経済力の低い国が全て内戦に突入しているわけではないし、一次産品に頼る国が全て反乱に直面しているわけでもないだろう。
個人的に、Hananiaの議論は風邪の症状を抑えるにはどうすればいいかを論じているのに対し、Turchinらはそもそも健康な体をどう作るべきかに注目しているように見える。互いの言うことが完全に矛盾しているわけではない。
米国が足元で、かつての南北戦争のような、あるいは16世紀の英国のような、大規模で全面的な軍事衝突を含む内戦状態に陥る可能性は、個人的には低いと思う。この点について私はHananiaの議論にかなり同意する。せいぜい左右双方の過激派が路上で散発的に暴力騒ぎを引き起こす程度であり、たとえトランプがどれほど吠えたとしても、組織的な暴力機関が複数に分かれて互いに殺しあうような状況にまで分断が進むような事態は想定しづらい。
一方で大衆の不満やエリート内対立といった各種の不平が何のリスク要因にもならない、とも思わない。それが政府に対する信頼を掘り崩し、ひいては政府の弱体化につながる可能性はある。現時点で米国が内戦に陥ることはなくても、大統領選に際して生じた混乱において政治家が「なんでもあり」とばかりにこれまでの暗黙のルールを破るような行動に出れば、次に内戦のリスクが高まった時に「機会モデル」が働く余地が増えることは十分に考えられる。
結局のところ未来に何が起こるかは確率的にしか推し量れないのだろう。内戦や革命のリスクは低くても、2020年代が以前より騒動と憎悪に満ちた「不和の時代」になる可能性はそれほど低くないと思う。
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