イエナの戦い当時におけるベルナドットの行動についてはこちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/dornburg.html"にほぼ書きたいことは書いている。この時の彼の行動について非難を浴びせているのは主にナポレオンであり、彼が自らの失敗(プロイセン軍主力の位置を見誤った)を糊塗するためベルナドットを犠牲の山羊にした可能性が高いことは、上のページで指摘している。
一方、昔からよく見かけるベルナドット批判の文章の中には、以下のような話がよく紹介されている。曰く、ベルナドットは自分が第1軍団を、ダヴーは第3軍団を率いているのだから自分が先頭に立つべきだと言った。曰く、ナポレオンはベルナドットを軍法会議にかける命令書に署名したが、ベルナドットの妻でナポレオンの初恋の人であるデジレのことを考えてこの命令を破棄した、云々。
どこからこんな話が出てきたのか気になっていたのだが、最近になって発見。これはどうやらナポレオンがセント=ヘレナで読んだ本に書き込まれていたメモが元ネタらしい。Memoires pour servir a l'Histoire de Charles XIV. Jean, Roi de Suedeという本のp152に『イエナの戦いの後に…』という部分があり、そこにナポレオンは以下のような長大な書き込みをしている。
「イエナにおけるベルナドットの行為は、皇帝が彼を必然的に銃殺へ至ったであろう軍法会議にかける命令に署名したほど酷いもので、軍は彼に対して憤激した。彼はほとんど敗北を引き起こすところだった。皇帝がその命令をヌシャテル公[ベルティエ]に手渡そうとする瞬間に廃棄したのは、彼の妻[デジレ]に気兼ねしたためだ。その少し後にベルナドットはハレの戦いで名声を上げ、それによって以前の好ましくない印象をある程度打ち消した。
ベルナドットは1万8000人からなる第1軍団を指揮していた。彼は3万人の軍団を率いるダヴー将軍の後にナウムブルクへ到着した。ベルナドットはコーゼン[ケーゼン]の隘路とアフェルシュタット[アウエルシュタット]の戦場を守るためにダヴーを支援し、5万人の集団を形成するよう命じられていた。ダヴー軍団の半数が既にザーレ河を渡ったところでベルナドットが到着し、自分の軍団が1番だからという愚かな理屈で部隊の先頭に立つことを提案した。ダヴーは当然ながらこれに反対し、貴重な時間の損失をもたらし異なる軍団が隘路で混乱して多くの損害を引き起こしかねないと説明した。するとベルナドットは幕営地を畳みドルンブルクへと行軍して夜明けにそこでザーレ河を渡った。まさにこの時、ダヴーは最良の兵6万人の先頭に立ったプロイセン王から攻撃を受けた。ベルナドットの1万8000人の不在は実に大きかった。こうした状況下でアフェルシュタットの戦いは行われ、そこでダヴーは多くの栄光を得た。ドルンブルクのベルナドットには、まだプロイセン軍の背後に襲い掛かることで失敗を取り戻す機会があった。彼は自分の兵をパレードさせることで満足してしまい、一発の銃弾も撃つことはなかった。将軍たち、士官たち、兵士たちは裏切りを声高に告発することで彼らの怒りと敵意を明示した」
Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Historical Miscellanies. Vol.I"http://books.google.com/books?id=-gcBAAAAYAAJ&printsec=frontcover&dq=editions:0wBDpzpsnMM-mNPwVFv" p225
要するにこの手の話は全部ナポレオンが言っているだけのようだ。ロディの戦いに関してはナポレオンと無関係なところで勝手に伝説がでっち上げられていったようだが、この件に関して火のないところに煙を立てたのは皇帝自身だった模様。
とはいえ、伝説の作者がナポレオンだけと断言するのも間違い。ダヴーからの伝令に対してベルナドットが暢気に「俺がここにいるのだから心配するな」と答えた話は、おそらくナポレオンでなく年老いたトロブリアンの脳内で生まれたものだろう。
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