ホーエンリンデンの戦いについてのネイ将軍の報告
「午前6時、敵は砲兵を主としたかなりの戦力でミュールドルフからの主要街道を経てホーエンリンデンの我々を攻撃し、その主攻をグルーシー将軍の右翼に差し向けましたが、彼は積極的にそれを迎え撃ちました。直後に私の師団も激しく攻撃され、敵はクライナカー[クロナッカー]の高地に到着し始めました。司令官は、敵がまだ完全に隘路から出ていないと判断し、総攻撃を命じました。攻撃縦隊がホーエンリンデンを経て出撃し、敵が既に大軍で占拠しているクライナカー左翼の高地とブルクライン街道を奪おうとしました。機動の素早さと攻撃の激しさが合わさり、敵は急いで退却を強いられました。(時刻は正午でした。)私の右にいたグルーシー師団はこの時、敵の左翼を突破して後退を強い、敵はすぐに完全に壊走しました。
マテンポット[マイテンベート]の隘路を支配したため、大量の大砲と弾薬箱が我らの手に落ちました。ウードレ将軍(フォーコネ将軍の交代)が指揮する旅団には参謀副官リュファンがおり、壊走する敵を後者の村(マテンポット)まで追撃し、そこでリシュパンス師団と合流しました。彼らはこの地点まで進んできたばかりで、敵に激しく圧迫されていました[ママ]。彼らは連携して行動し、敵をハークへと完全に退却させました。その間、ヨハン大公が指揮する[ママ]右翼縦隊(キーンマイヤー)が、ボネ師団(前アルディ)の左翼を進む(覆う)ためにプライセンドルフとハートホーフェンへと前進を始め、ブルクラインから来た第2縦隊(バイエ=ラトゥール)は既に森を出発し脇道を通ってホーエンリンデンへと前進を始めていました。ですが第103[半旅団]の2個大隊と、(2個)擲弾兵大隊、及び第76、第13竜騎兵、第19騎兵連隊が、これら様々な出口に梯形に布陣し、ボネ師団と協力してどうにか敵を食い止め、損害を与えて撃退しました。
ハーク方面の敵を見て彼らを撃退した後で、ウードレ将軍の旅団は、左翼でいくらかの成功を得たように見える敵を追撃すべく、第8猟騎兵連隊とともにシュナウピンクへ戻るよう私から命令を受けました。彼らはこの村の正面に布陣し、ブルクラインの背後に布陣している敵の側面にいることに気づきました。(時刻は午後7時でした。)
我が師団の激しい努力と隣接する各師団との連携した移動により、80門以上の大砲と大量の弾薬箱、いくつかの軍旗と、何人かの将官及び多くの著名な士官たちを含むおよそ1万人の捕虜を手に入れました。
我が師団の准将たち、全階級の士官たち及び全兵科の兵たちが、この記憶すべき日に自らの任務を完全に果たしました(後略)」
グルーシーからモローへの報告、12月3日夕
「将軍、マテンポット[マイテンベート]の正面、ハーク街道から少し左に離れたシュトラスマイアーに布陣したことを謹んでお知らせします。一緒にいるのは第46[半旅団]、第6騎兵及び第11猟騎兵[連隊]です。リシュパンスが私の前方、ハーク方面にいます。ネイ師団の一部は私の後方、大きな森の出口にいます。将軍、私はあなたの命令と、そしてあなたがもう必要としなくなった時に第57と第108が戻ってくるのを待っています。
リシュパンスは第4ユサールと私の砲兵の一部を率いています。ここで私が保持している兵はよく集結し、連携しています。
将軍、この素晴らしい日に対する私の喜びと、あなたが私に任せてくれた優れた師団に対する私の全ての感謝の表明を、どうか受け取ってください」
グルーシーからモローへの公式報告、12月5日、ライヒャースハイム
「将軍、12月3日についての最初の報告を送ります。
2日夕、私の指揮下にある師団はホーエンリンデン村の右側と少し前の陣地を占めていました。第108半旅団は主要街道と森の間の土地に配置されました。第48半旅団と第57は同じ森の端に梯形に布陣し、森を抜けてヴァッサーブルクとエバースベルクへ通じるいくつかの小道を守っていました。騎兵は歩兵の左の平野部におり、砲兵はインディンクから来る出口の端にいました。オーストリア軍の哨戒線からマスケット銃の射程内にあった我々の前哨線は、2日から3日にかけての夜間に攻撃され、我々の前方正面にあった集落は奪われ、奪回し、最後は敵の手にとどまりました。
3日午前8時、師団は全正面にわたって攻撃されました。オーストリア軍は主に第108半旅団が守っている部分と、ホーエンリンデンに至る道路上に攻撃を集めました。ボイエ将軍が大砲3門及び第4ユサール連隊を率いて第108を支援し、後者は完璧に陣地を維持して敵の進展を阻止しました。敵は師団右側面の森を経由し、大半が擲弾兵で構成されている歩兵8個大隊で攻撃を行うことを決断しました。迂回された第108はしばし後退することを余儀なくされ、その指揮官マルコニェは負傷し捕虜となりました。最も激しい散弾砲撃に長いこと晒され、彼らにとっては通常である堅固さをもってそれを支えていた第46は、敵が多大な数的優位を生かして森から出撃してきたその時に、グランジャン将軍に率いられ第108の救援に向かいました。第46の半個大隊が銃剣で敵に襲い掛かり、血腥い白兵戦の末に敵を打ち破り追い払うのに成功しました。第57の半個大隊も、常に森を通って我々を迂回しようと試みる敵の企図に抵抗するべく右翼で前進しました。森は執拗かつ栄光ある小競り合いの舞台となりました。我々は至近距離で戦い、ついに勝利と、そしてこの攻撃を率いたスパンノッキ少将を含む数多くの捕虜が、われらの手にとどまりました。しかしオーストリア軍は側面攻撃と同時に正面でも攻撃を再開しました。彼らは第11猟騎兵の2個大隊に突撃され、騎兵は敵を圧倒し大砲3門を奪いました。最後に、完璧に指揮された師団砲兵の砲撃が多大な効果を生み出し、完全に彼らを壊滅しました。
これら最初の優位を利用するべく、グルニエ将軍の各師団と私の師団による総攻撃が命じられ、第46と第57が攻撃縦隊を組み、第108はその支援及び、もし敵が右側面で新たな攻撃を試みる場合にはそれを止めるため森を監視する役を担うよう配置されました。オーストリア軍はあらゆる場所で圧倒され、マテンポットの隘路に身を投じ、この地点において彼らは全面的に壊走しました。にもかかわらずグルニエ将軍に対する彼らの別の部隊による激しい攻撃が3時頃に行なわれ、第57と第108の一部はその支援に連れていかれました。そして師団の正面にはリシュパンス師団がおり、第4ユサールと軽砲兵の一部は、彼らを増援しこの日の成功と数多くの捕虜の確保に協力すべく送り出されました。
夜の到来でこれ以上は敵を追撃できなくなり、師団は森の右側、ハーク街道の鞍部にあるシュトラスマイアーに布陣しました(後略)」
p145-147
レイセの手紙
共和国暦9年雪月13日(1800年12月3日)午後4時、クーフハイムの宿営地
「親愛なる友よ、我々は昨日戦い、そしてこの戦いは戦役の行方を決めたはずだ。それは恐ろしい戦闘であり、これほど多くの死者と負傷者が出たものは決してなかった。我々は敵の大砲60門を奪った。我らの師団のみで40門以上だ。リシュパンス将軍は、彼の行為における素晴らしく積極的なやり方で、自らの栄光と評価を上乗せした。彼は何度も師団の一部とともに包囲され軍の残りから切り離され、そのたびに道を切り開いた。私は縦隊を率いている最中に、オーストリア軍がいるとは予期しない場所でいきなり攻撃された。部隊から切り離され、たった3個大隊とともに取り残され、完全に敵に包囲された。手に銃を持って戦い、どうにか脱出することで、私は兵とともに将軍に協力しその成功を分かち合のに間に合うよう彼と合流することができた。
私に言えるのはそれだけだ。私は膝のうえで文章を書いており、指は凍り付き傷を負っているが、どうか読んでほしい。私の調子は良く、少しのサーベル傷があるが深刻なものは受けていない。乗馬は撃たれたが、治せるだろうと期待している。さらば、さらば。私と、母や父、そして私を思うものたちみなにキスを。右翼のルクルブも同じように輝かしい成功を収めたが、詳細を私はまだ知らない。きょう我々は、ユサールと歩兵を除き、50頭前後の馬匹を手に入れた。我々がたどり着いたあらゆる場所で負傷した彼らが300から400はいた。話すのを忘れていたが、昨晩は我々の司令部に連れてこられた捕虜が1万人もいた。森の中にはまだ大勢いるため、我々は彼らを駆り立て、捕虜は続々とやって来ている。右翼で何が行われたのか、詳細は分からない。
さらば、さらば、手紙を書いてくれ、そしてミミに私へ手紙を書くよう伝えてくれ」
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