ホーエンリンデンの戦い 5

 PicardのHohenlindenを使い、ナポレオンがセント=ヘレナで行ったホーエンリンデンの戦いに関する記述(原著英訳本)へのツッコミを紹介してきた。だがPicardによる批判は別に元皇帝だけに向けられているわけではない。先行研究の中におかしいものがあれば、それに対する異論の提示が行われるのは当然だろう。
 戦役開始前におけるモローの計画に関する議論もその一つだ。Picardは「何人かの軍事専門家は、モローが既に偵察しているホーエンリンデンの戦場へと敵を連れてくることを提案したと主張している」(p91)と述べ、モローがオーストリア軍をホーエンリンデンまでおびき寄せたという説があることを紹介している。問題は、この説がどの程度妥当であるかだ。
 まず1人はマテュー・デュマ。Précis des Évènements militaires ou Essai historique sur les Campagnes de 1799 à 1814には、モローが「地形が分断され、森に覆われており、自らが企てている機動に向いているうえに、オーストリアの騎兵と重砲兵の優位が、フランス軍の優れた歩兵に勝ることができない2つの河[イザーとイン]の間にある地点に敵を引き付けようとした」(p104)との指摘が載っている。
 2人目はジョミニだ。Histoire critique et militaire des Guerres de la Révolution, Tome Quatorzièmeには、モローの参謀長デソルがイン河沿いのオーストリア軍陣地を正面から攻撃するのが難しく、「実行できる唯一の作戦は、敵をこの難攻不落の避難所から出発させ、成功の大きなチャンスの下で戦えるエバースベルク森の隘路とイザーの湿地に引き寄せるよう試みること」(p81)だけだと判断したと書かれている。彼はモローにこの策を提案し、それが試されることになった、というのがジョミニの説明だ。
 もう一つはこれまでも紹介してきたCampagne des Français en Allemagne. Année 1800。Carrion-Nisasが記したこの本は、例えばナポレオンの主張に対してPicardと同様にツッコミを入れていたりするわけだが、その中にはモローが戦争再開を想定した時点で「敵を呼び寄せるべき戦場を定めた。敵が右側へと大きく移動することでそこから離れようとしても、物事の力によって彼らはそこに呼び戻されるであろう。彼らは倒れるべきであると決められた地で倒れることになる」(p82)とある。モローは敵にイニシアチブを取らせ、彼らをイン左岸へ引き寄せ、長いこと準備してきたフランス軍にとって都合のいい戦場で戦った、というのがCarrion-Nisasの考えだ(p295)。
 彼らの考えと平仄が合うのが、デカーンが1800年の9月に行ったミュンヘン東方のエバースベルクやホーエンリンデン方面の偵察だ(Carrion-Nisas, p404-406)。もしかしたらモローは、オーストリア軍が作戦のイニシアチブを握った場合、そこで彼らの攻撃を待つつもりだったのかもしれない。だが戦役が実際に再開される直前の時点において、デュマやジョミニらの推測は同時代の記録とは矛盾したものになっている、とPicardは指摘する。
 その証拠となるのは、デソルが11月27日付で陸軍大臣に宛てて記した手紙(Carrion-Nisas, p406-408)。最後の部分に司令官の計画が記されているのだが、その中身は「集結した軍とともにインへと行軍し、この河の正面にある敵を全て打ち破り、渡河にふさわしい地点を探す。もし敵がオージュロー将軍に対して戦力の一部を差し向け、同時に我々の右側面へと機動しようとするなら、手段の優勢な我々は確実に渡河できるだろうし、敵は両翼のどちらかと分断されることになる。もし逆に彼らがまとまってインの背後で待ち構えるなら、いかに敵を出し抜いて渡河するよう機動するかが問題となり、我々の側面は安全になる」(p208)というものだ。
 つまりモローはあくまで自ら主導権を握ってインを渡ることを考えていた様子が窺える。実際、長い休戦期間に軍が駐留を続けていたため、同じ地域で長期にわたって機動を行うのは困難だったし、雨でぬかるんだ道は移動を困難にしていた。またデソルからルクルブに対する10月の命令を見ると、軍によるイン渡河をヴァッサーブルクからクフシュタイン間の地域で行うとしている。さらにモロー自身が追伸で、ルクルブの担当する右翼方面で「インの渡河を試みるだろう」(Picard, p94)とも述べており、彼が敵を待ち構えるのではなく、積極的に前進しインを渡るつもりだったことが窺える。
 実際にはモローの前進はインの渡河に取り掛かる前に挫折し、アンプフィンクの敗北によってミュンヘン方面へと後退することを余儀なくされた。結果的に森がちで歩兵が使いやすい、フランス軍に向いていると言われる地形で戦うことになったのは、そうした一連の経緯があった結果である。後知恵で見るといかにもモローがホーエンリンデンへと敵を誘い込んだように見えるが、彼が事前にそう想定して動いていたというのは無理があるのは確かだ。

 結果的にホーエンリンデンで大勝を収めたことを理由に、事前にそこで戦うことを想定していたという説を唱えるのは、典型的な後知恵バイアスだと思われる。「ワーテルローへの道」について書いた時も、歴史の説明があまりにしばしば後知恵に侵されていることを説明したが、そうした現象は別にワーテルローに特有のものではない。おそらくどんなケースであれ、後知恵に基づく説明が過去に遡ってなされることは珍しくないのだろう。
 それだけではない。時には後知恵と辻褄を合わせるために過去の事実がでっち上げられるケースすらある。以前に紹介した中ではブーリエンヌの残した回想録が典型だ。彼によればボナパルトはアルプス越えを実行するより前から、いずれオーストリア軍とは「スクリヴィアの平原で接触する」と予想していたことになるのだが、これはおそらく嘘。全ての経過を知った後でブーリエンヌがでっち上げた虚構である可能性が高い。
 大デュマが残した回想録にも、同様に後知恵に基づいて過去の事実が歪められた事例が存在する。彼の父親はイタリア遠征時にオーストリア軍の命令書を手に入れたという功績があったのだが、息子はその功績を大きく見せるために命令書に勝手に追伸を付け加えて回想録に掲載した。幸い、この手紙に関しては他の文献にも原文が載っており、デュマの本にしか追伸部分が存在しないことが分かっている。
 小説家由来のでっち上げとしては、Walter Scottにも前科らしきものがある。小ピットがフランス軍の勝利を知って欧州の「地図を畳んでくれ」と頼んだという逸話は、おそらく初出が彼の本だ。実際にそのような事実があったのではなく、フランスが長期にわたって優勢を続けること、ピットがその初期に死亡すること、そういった事実を知ったうえで過去に遡って存在しない物語が作り上げられたのだろう。
 同じように後知恵ででっち上げられた話ではないかと疑っているのが、リッチモンド公爵夫人の舞踏会でウェリントンが言ったとされる、Napoleon has humbugged me, by Godというセリフだ。言わなかったと立証するのは難しいが、同時代の他の史料と照らし合わせて判断すれば彼が言うとは思えないセリフが混じっていることは既に指摘した。ウェリントンのwikiquoteにまで載っているほど有名な言葉だが、信じるのは拙い逸話の典型例と言える。
 ことほど左様に事例は多い、のだが、だとしてもホーエンリンデンのようなマイナーな戦いにまでそういった後知恵バイアスが働いているのは興味深い。話題の対象がよく知られたものかそうでないかといった条件とは無関係に後知恵が働いているのを見るに、どうやら大半の人はほぼ常に後知恵に引っ張られているらしい。人は常に今というレンズを通してしか過去を見られない。そして今の状況と分かりやすく辻褄が合っている過去を提示されれば、それを簡単に受け入れる。歴史を学ぶ際には、誰であれそういう傾向を持っていることを自覚しながら勉強すべきなんだろう。
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