ホーエンリンデンの戦い 4

 さて前回までPicardによるナポレオン批判を見てきたが、両者の議論を見ていて気になったところが1つあった。規模の大きな分遣隊を使って敵側面や背後を攻撃することが「戦争のルール」に反しているかどうかという議論だ。ナポレオンはそのルールに反しているといってモローを批判し、Picardはルール違反を減らすためにデカーンは側面に回さない方がよかったと主張している。しかし、このルールは言われているほど明確なものなのだろうか。
 実のところ、ナポレオン自身がこのルールに反するような戦いを何度かしている。例えばカスティリオーネの戦い。ボナパルトはマセナ師団及びオージュロー師団を使ってオーストリア軍と正面から戦う一方、セリュリエ師団(フィオレラ指揮)を敵の左側面から襲撃させて勝利をつかんでいる。
 バウツェンの戦いも有名だ。ネイ率いる別動隊が左翼から回り込み、連合軍の背後に出るはずだったが、上手くいかずに彼らに逃げられた。アイラウの戦いでは右側からダヴー、左側からネイがそれぞれ敵の側面あるいは背後を目指して移動したが、結果は引き分けに終わった。
 自らが別動隊を率いるような恰好になった例もある。エックミュールの戦いにおいては正面のダヴーがオーストリア軍を引き付けていたところに、敵左側面に対してナポレオン直率の主力が襲い掛かって勝利をつかみ取っている。
 連合軍側もよく使用している。例えばトゥールコアンの戦いにおいては連合軍主力が南東から迫る一方、クレルフェの別動隊が北西から攻撃を仕掛けてきた。リヴォリの戦いではオーストリア軍の別動隊が大きく迂回してフランス軍の背後に到着している。
 実はワーテルローの戦いも、結果的にはこの「分遣隊が敵側面を突く」形式の戦いとなっている。英連合軍が正面で戦っている間にフランス軍の右側面をプロイセン軍が攻撃し、そして最終的には圧勝した。ここまで挙げた例を見ても分かる通り、別動隊を使った軍は時に勝ち、時に負けており、そこには必ずしも法則性があるようには見えない。
 当時の軍人たちがどのような法則性を見出していたのかは不明だが、正直言って別動隊の有無はそれだけで結果が決まるような要素ではないように思う。その他のパラメータ次第で状況はいかようにでも変化するし、タイミング1つで勝ち負けが変わることだってある。ホーエンリンデンの勝利が運だけでないという主張については理解できるが、それでも運の要素がかなり大きかったことは否定できないんじゃなかろうか。

 リシュパンスとデカーンの行動に対するナポレオンの見解とそれに対するPicardの批評はこれまで紹介した通りだが、実はPicardによるナポレオン批判はもう少し続いている。対象となるのはフランス軍ではなくオーストリア軍のヨハン大公に関するものだ。
 ナポレオンはホーエンリンデンの戦いにおけるヨハン大公の作戦について「彼の配置は極めてよく考えられたものだが、彼はその実行に際してミスを犯した」(原著p56、英訳本p59)と指摘している。ナポレオンによると、彼の軍は右翼を前方に置いた梯形を組んで移動すべきだったという。
 右翼のバイエ=ラトゥールとその側面部隊であるキーンマイヤーは合流し、コロヴラットの中央縦隊が森に入る前にグルニエ軍団と交戦を始める。ヨハン大公はマイテンベート付近で中央縦隊とともにとどまり、バイエ=ラトゥールの行軍を助けるために1個師団で森を偵察する。グルニエの3個師団が右翼縦隊と交戦を始めればホーエンリンデンに残るのはグルーシー師団のみとなり、そこに襲い掛かれば敵は「半時間も持たないだろう」(p57、英訳本p60)というのがナポレオンの見立てだ。だがヨハン大公の中央縦隊は、脇道を苦労しながら通っている側面部隊に構わずに突進してしまい、彼らのみが敵と交戦することになった。しかも場所は森の中であり、数の優位も生かせなかった。
 主力縦隊をホーエンリンデンへの街道上にある長い隘路に投入すべきでなかったことは確かだろう。しかしナポレオンは無視しているが、オーストリア軍は実は3日に敵と会戦を行うとは予想していなかった節がある。彼らはアンプフィンクで敗北した敵の追撃のみを考えていた、というのがPicardの指摘。確かにヨハン大公のこの日の命令には、まずアンツィンク(ホーエンリンデン西方12キロほどの場所にある村)での合流が真っ先に書かれており、敵との遭遇より目的地への到着を優先している様子がある。加えて末尾には騎兵を活用することで「敵は素早い追撃によってより破滅的な影響を受ける」との文言もあり、オーストリア軍が追撃モードにあった様子が窺える。
 もちろんそれでもヨハン大公は交戦の可能性も考えて行動すべきだった。彼は失敗の原因を特に左翼縦隊を指揮したリーシュに押し付けたそうで、12月5日付の彼の手紙(Quellen zur Geschichte der Kriege von 1799 und 1800, Zweiter Band, p437-439)には、「左翼の第1縦隊はアルバッヒンクに到着するのに11時間もかけていた」というセリフがあるのだが、Picardによればリーシュはハークを午前4時半に出発し、10時にはアルバッヒンクに到着していたという(p251)。
 加えてリーシュは司令官に対し、間に合うようにザンクト=クリストフに到着することが不可能であることを伝えていたという。バイエルン軍のディートフルト少佐が残したとされる史料(Campagne des français en Allemagne, année 1800, p377-384)の中に、確かにリーシュ将軍が中央縦隊に付いていくことは不可能だと宣言したことが書かれている(p381)。いずれにせよカール大公に言わせれば、ヨハン大公の配置は左翼を中央から離しすぎだそうだ。
 ヨハン大公はリーシュを批判したのと同じ手紙の中で右翼の2個縦隊についても、常に任務を果たすタイミングを失っていたと批判している(Quellen zur Geschichte der Kriege von 1799 und 1800, Zweiter Band, p438-439)。Picardはバイエ=ラトゥールに対しては正当な批判だが、キーンマイヤーと彼の配下にいたシュヴァルツェンベルクにはそれほど当たらないとしている。ヨハンは皇帝に宛てた最初の報告(p439-442)でも改めてリーシュとバイエ=ラトゥールについて、正面ばかりを気にして中央縦隊への接近をしようとしなかったと非難している。
 バイエルン軍のツヴァイブリュッケンは、より厳しいが公平な批判をしているそうだ(Quellen zur Geschichte der Kriege von 1799 und 1800, Zweiter Band, p452-457)。彼によればオーストリア軍の兵たちは「無知と愚かさ」(p453)の犠牲となったのであり、犯した過ちの大きさと数によってこれほど完璧に失われた戦いはこれまでなかったという。
 敗因は各縦隊間の連絡が維持されず、3つの縦隊の攻撃に連携が取れなかったことにある。彼らは縦隊間の偵察を怠り、退却を確実にするための予備の配置を怠り、そしてホーエンリンデンの敵を排除しない限り、多すぎて無駄な砲兵によって進路は渋滞を続ける羽目になった。要するに各縦隊の指揮官たちに加え、司令官であるヨハン大公も、ナポレオンが言うほど敗北に対して責任が薄いとは言い難いと、Picardは見ているのだろう。
 ただしPicardはこれらのミスがモローの実績を引き下げるものではないとしている。少なくともマレンゴやウルムにおけるメラスやマックのミスよりは影響が少ない、というのが彼の主張だ。カール大公によればこの戦いのカギはフランス軍主力の右翼側、ホーエンリンデン方面であり、比較的開けていたこの地では三兵戦術を展開しやすかった。そこでカール大公はキーンマイヤーにフランス軍の正面と左翼を攻撃させ、他の部隊はハークからヴァッサーブルク街道(ホーエンリンデン街道のさらに南を東西に通る道)へと進んでフランス軍右翼に同日あるいは翌日に接近することを提案しているそうだ(p252)。ただしPicardはこの機動について、敵が動かないこと前提であると指摘している。
 以上がPicardによるナポレオン批判の全体だ。基本的に意見ではなく史料で殴りかかっているため、説得力は高い。ただマイナーな戦いに関する批判だけに、今や世間に注目を浴びることはほとんどない議論と化している。
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