ホーエンリンデンの戦い 3

 承前。PicardのHohenlindenに掲載されているナポレオン批判の続きだ。リシュパンスに対して敵の背後に襲い掛かるよう命じた文章が戦い前にあったのかというと、厳密にそう書かれたものはないとPicardは言う。だがリシュパンスに対し、敵への攻撃を指示した命令書が12月2日時点で発せられていたことはおそらく事実だ。Campagne des français en Allemagne, année 1800には、モローの裁判の時に持ち込まれ、以後陸軍公文書館に保存されていた、参謀長ラオリーからリシュパンスへの命令書が紹介されている。

「あなたの師団が行軍し、午前8時にはザンクト=クリストフに到着してそこに布陣するというのが司令官の意図です。(中略)
 この配置の目的は、敵がハークからホーエンリンデンへの、またイセンからホーエンリンデンへの街道上で軍を攻撃するであろうとの推測に基づき、敵を迎撃できるようにすることにあります。あなたの目標は、もし敵がホーエンリンデンへ決定的に押し出す移動を実行した場合に、敵と戦うことにあります」
p307-308

 デカーンに対して出された2日時点の命令にも、基本的に同じ内容だ。敵がイセン方面と、ハークからホーエンリンデンへ通じる道を経て攻撃してくると想定。リシュパンスをザンクト=クリストフに進出させ、ハークからホーエンリンデンへ向かう敵を迎撃するか戦うようにする。デカーン自身にはリシュパンスの後を追うようにも命じている(p411)。
 デカーンの回想録によると、彼はこの命令を受けて2日の真夜中にリシュパンスに向けて手紙を記したという(p140)。3日の午前2時半の日付で書かれたリシュパンスの返答には「クリストフ到着の直後に攻撃せよとの命令を受けた」との一文が記されており(p140)、こちらの記録もまたリシュパンスが攻撃を命じられていたことを示す証拠となっている。3日の午前2時半の時点ではリシュパンスはまだマイテンベートへの行軍を始める前であり、結果を見たうえでの後知恵に基づく発言ではない。
 デカーンはさらに出発前にもラオリーからの手紙を受け取っている(p141-142)。そこでは敵が前日夕方から実際にホーエンリンデンへ向かっていること、リシュパンスが積極的にザンクト=クリストフ経由でマイテンベートを攻撃するよう命じられていることなどが書かれているほか、追伸部分でマイテンベートへの攻撃が難しければリシュパンスには左へと進撃後方を変えてよりホーエンリンデンに近いところへ向かうことも認めたという内容が記されている。加えて事後的な史料だが、デカーンが後に記した戦いの報告書の冒頭には「マイテンベートで敵を攻撃することになっていたリシュパンス」(p145)とある。
 またPicardが紹介しているグルニエから配下の各師団長への命令(p172-174)の中には「敵があらゆる攻撃を左翼に集中させるつもりだと確信した時点で、司令官はリシュパンス師団とデカーン師団をクリストフ経由でマイテンベートへの行動させる」(p175)との一文もある。Picardはこうした一連の証拠も踏まえて「ナポレオンが言うようにこれら2個師団を森の東端で抵抗させることによってオーストリア軍が森に侵入するのを防ぐ意図など、モローの心中には全くなかった」と結論づけている(p245)。
 確かにモロー自身からリシュパンスへ直接宛てた命令は見当たらないものの、それ以外にこれだけの史料が存在する以上、ナポレオンの主張が成立しづらいのは確かだ。加えてナポレオンの回想録が出版された後にリシュパンスの息子が公開した父親のメモが新聞に掲載され、その中に「私が司令官から受けた命令は、ハークからホーエンリンデンへの街道上へ進み、最も適切と思われる場所から出撃して敵を攻撃するよう試みよというものだった」(3 mars 1824, p4)と書かれていることも、証拠の一つになるだろう。
 もちろんこの作戦が史実のような完璧な結果をもたらすことをモローが事前に予想していたとは思えない。デカーンがラオリーから受けた2つめの手紙にあるように、あるいはリシュパンスの息子が公開したメモに記されているように、街道上のどこで攻撃に出るかについてモローはリシュパンスに裁量権を与えていたのはおそらく間違いないだろう。全然別の場所で指揮を執っていたモローが事前に細かい指示を出すことは不可能だったし、そこはおそらく部下に任せていた。そしてその部下は、おそらくモローの期待以上の成果をもたらした。

 Picardはモローに問題があるとしたら、それは「敵の動きを止める」前に機動を始めたことにあるのではないかと書いている(p246)。といってもラオリーからデカーンへの手紙にあるように、オーストリア軍が既にホーエンリンデンへ向けて移動を始めていることはフランス軍首脳も知っていた。実のところ、2日夕にヨハン公がオーストリアの最高会議に向けて記した手紙の中で「敵を追撃した前衛部隊は50人の捕虜を取り、前衛部隊の大半はホーエンリンデンまで半分の距離にいます」(p168)と述べている。
 フランス側がオーストリア側の動きを把握していた証拠は他にもある。La vie militaire du Maréchal Neyの中には、オーストリア軍が2日夜にはハーク周辺に、3日朝にはホーエンリンデンに面する森の端まで来ていたことを示す報告書が紹介されている(p344)。ネイ自身、2日の午後11時から真夜中の間にグルニエに宛てて記した報告書内で、敵が夜10時前後にグルーシー師団を突然攻撃したこと、11時までクロナッカー(ホーエンリンデン北方1.5キロほどにある村)で銃声が聞こえていたこと、そして捕えた捕虜の情報として帝国軍全軍が3日に攻撃をするべくマイテンベートの隘路に向かっていることなどを伝えている(p345)。
 ナポレオンは2個師団が他の部隊と離れた別動隊となって行動することがルールに反していると述べている。しかし、モローは最初から彼らを分遣隊として使うつもりではなかった。1日にラオリーからリシュパンスへ与えられた命令(Picard, p162-163)を見ると、2日にエバースベルクに布陣することで3日にはホーエンリンデンかアンツィンクへと容易に戻れるようにすると記されている。彼がマイテンベートへ投入されることが決まったのは、オーストリア軍がホーエンリンデンに向かっていることが明確になった後だ。
 ナポレオンはオーストリア軍が右翼側へ機動したり、あるいはホーエンリンデンを奪った後になれば、リシュパンスらの機動が無駄になると指摘している。だがモローはオーストリア軍が右へと方向を変えることなくホーエンリンデンに向かっていることを知っていたし、またホーエンリンデンが落ちる前に敵を攻撃するようリシュパンスに急がせている。またデカーンの回想録には、彼がモローの司令部で最初はホーエンリンデンに向かうよう求められたが、午後2時以前に到着することは難しいと述べた結果としてリシュパンスの後を追うことになった経緯が記されている(p137)。
 そもそもハークからホーエンリンデンへ至る道はこの地域では唯一車両にとって利用可能な道であり、オーストリア軍が前進を試みる場合、ここを通るのはほぼ必然と思われていた。その状況を踏まえたうえで、モローは6個師団を一緒に戦わせることはできなかったが、少なくとも同時に戦わせることは可能だったと判断したわけだ。もちろんそれでもなおデカーンについてはホーエンリンデンに呼んだ方がよかったとの考えもある、とPicardは述べている。リシュパンスのみが側面へ機動するのがベストだった、というのが彼の見解だ(p248)。
 もう一つ、Picardがモローに批判的でナポレオンを支持しているのは、左翼と右翼(全軍の半数)が戦場にいなかったことだ。「これらの師団が戦闘に参加できなかったのは、ライン方面軍がイン河への行軍に際して採用した幅広く分散した計画のためである。モローは戦力を間に合うように集める手段を残さないというミスを犯し、彼自身もそれを認めている」(p249)と記すことで、Picardは最後に少しだけ皇帝にフォローを入れている。
 ちなみにホーエンリンデンの戦いに関するジョミニの評価もPicardの本で紹介されている。ジョミニによればナポレオンが「ホーエンリンデンのモローほど運命に助けられたことは、マレンゴを除いてなかった」。もしオーストリア軍の中央縦隊がもっとゆっくり動いていれば、リーシュが半時間早くザンクト=クリストフに到着していれば、リシュパンスの戦果はもっと小さくなっていただろう。だがそれでも「モローの配置は、彼が想定した敵戦力の状況下においては、優れたものだった」というのがジョミニの意見だ(Histoire critique et militaire des Guerres de la Révolution, Tome Quatorizième, p106-108)。
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