承前。セント=ヘレナのナポレオンによるホーエンリンデン解説(
原著 、
英訳本 )が、実は正しくないことを前回最後に指摘した。資料も文献も不十分な孤島において皇帝が記憶を頼りながら述べたことに間違いが含まれていること自体はおかしくないし、実際セント=ヘレナにおける彼の発言に対してツッコミが入っているのは珍しくない(例:
ニースにおけるイタリア方面軍への布告 )。ある意味、平常運転と言える。
何が拙かったのか。ホーエンリンデンに関しては後の歴史家から複数ヶ所にツッコミが入っているのだが、中でも重要なのはリシュパンスとデカーンをマイテンベートに向かわせた狙いについて「敵を防ぐために夜の間に移動を行うことになっていた」(原著p32、英訳本p33)の部分だろう。この2個師団の移動が防御目的のためだったと、ナポレオンは明確に述べている。だが夜明け前にマイテンベートに到着すべきだった彼らは「真夜中に酷い悪路で、かつ悪天候のために苦労し、夜間の大半において森の端を徘徊することになった」(p34、英訳本p36)。彼らがオーストリア軍の背後に出たのは意図した結果ではなく、そうした偶然の導きによるものだったというわけだ。
だが一般的に彼らの行軍目的は防御のためではなく、まさにオーストリア軍の側面や背後を突くためのものだったとされている。実はナポレオン自身もそのことを知っており、「モローは敵の側面を突くためにリシュパンスとデカーンのアルテンポット(マイテンベート)への行軍を命じたと言われている」(p52、英訳本p55)と自身で述べている。つまり記憶違いに基づいての主張ではなく、何らかの理由があってこのような主張をしていたことになる。
その理由とは何か。元皇帝によれば「[12月]3日のフランス軍の移動は全て防御的なものだった」ということになる。彼によると「4日になればルクルブ将軍が戦場に到着し、5日にはもう一つ、サント=シュザンヌ将軍の強力な増援を受け取ることができる」という理由から、モローは3日の間は防勢にとどまるつもりだったそうだ。当然、リシュパンスとデカーンの移動も、敵を攻撃するためではなく、3日の間は敵が森に突入するのを防ぐという「純粋に防御的」なものになる(p52-53、英訳本p55-56)。
それだけではない。ナポレオンはさらに「もしこの2個師団による機動の目的が敵左側面に襲い掛かるものであったなら」という想定もしている。彼によれば戦いの前夜にこれほど大規模な別動隊を派出することは戦争の原則に反しているそうで、例えば敵が右翼側へ機動したり、あるいは彼らのマイテンベート到着前にホーエンリンデンに達していた場合は「この分遣隊が接敵しない可能性がある」、つまり2個師団が遊兵と化す可能性があったという。
この場合、兵力が減った残りの4個師団はイザー河の背後まで撃退されてしまい、別動隊となったリシュパンスとデカーンの両師団は敵中に孤立することになる。「困難な地で、氷と泥の真ん中で孤立したリシュパンスとデカーンの2個師団は、イン河へと押し戻されることになり、フランス軍は決定的な敗北を被るであろう」(p54、英訳本p57)とナポレオンは結論付け、そのうえで「慎重なモローがこのような危険に身を晒すとは思えない」と指摘している。
彼のリシュパンスに対する評価は、このような前提を置いたうえでのものだ。彼はリシュパンスが夜の間にマイテンベートへ到着することになっていたと述べ、またデカーンと一緒に行軍しなかったこと、それどころか途中でドルーエ旅団を置いて師団の半数で前進したことを批判している。時間通りに目的地に到着できず敵中で孤立する恐れのある部隊が、さらにバラバラに前進するなど論外という見解だろう。「従ってリシュパンス将軍は軽率さ故に有罪である。この軽率さは幸運な結果をもたらし、戦いの成功は主にそれに帰することとなった」(p54-55、英訳本p57-58)。
以上がホーエンリンデンの戦いにおけるリシュパンスとデカーンの役割についてのナポレオンの主張。しかし、くり返しになるがこの主張には問題がある。
英語wikipedia (ほぼ
Arnoldの本 に由来する)を見ても、計画のところに「モローはリシュパンスを北東へと行軍させ、オーストリア軍左翼、即ち南側面を攻撃させる計画を立てた」と書かれており、リシュパンスの役割が防御ではなく攻撃であったことを明記している。
Picardは同書のp242から1章丸ごと使ってLe jugement de Napoléon、即ちホーエンリンデンの戦いに関する「ナポレオンの見解」を取り上げている。それだけツッコミ甲斐があると思ったのだろう。実際、彼のナポレオンに対するツッコミはかなり詳細にわたっている。
彼はまずセント=ヘレナより前のナポレオンの発言を取り上げている。共和国暦9年雪月19日(1801年1月9日)に彼がモローに出した手紙(
Correspondance de Napoléon 1er, Tome Sixième )には「貴君の素晴らしく賢明な機動に対し私がどれだけの関心を抱いているかを話したことはなかった。貴君はこの戦役で再び自身を超えてみせた。不幸なオーストリア軍はとても頑固で、氷と雪に頼っていたが、貴君のことを十分に知らなかったようだ」(p561-562)と記されている。この時点でナポレオンが、お世辞かもしれないがモローを評価しているような発言をしていたことは事実だ。
だがセント=ヘレナで彼は手の平を返した。「ホーエンリンデンの戦いは幸運は幸運な巡り合わせだった。戦役の運命は何の計画とも関係なく決まった」(原著p52)と語り、さらに「間違いなくホーエンリンデンの戦いはモロー将軍にとって、将軍たちにとって、士官たちにとって、フランスの兵たちにとって極めて栄光あるものだった。戦争における最も決定的な戦いの一つだったが、それはどのような機動にも、どのような作戦にも、どのような軍事的才能にも由来しない結果だった」(原著p58、英訳本p61-62)と決めつけている。デカーンがわざわざ説明に参上したにもかかわらず、そして過去にはモローを褒め称えたにもかかわらず、なぜナポレオンは後から評価を覆したのだろうか。
Picardはそう疑問を示した後で、まずナポレオンが唱えた「リシュパンスとデカーンは防御のために移動した」という主張を批判する。最初に提示される証拠は
モロー自身が戦い後に記した報告書 だ。そこには「私はホーエンリンデンで敵に攻撃されると予想し、リシュパンスとデカーン将軍にザンクト=クリストフを経てマイテンベートへ進出し、攻撃してくる敵の背後に強力に襲い掛かるよう命令しました」という一文が入っている。
ただしこの文章はことが終わった後に書かれたものである点に注意すべきだろう。事実と事後的に辻褄を合わせるために過去の命令をゆがめて伝えている可能性が皆無ではないからだ。後知恵に基づき、幸運あるいは部下のイニシアチブによって手に入った勝利を自分の戦果にしようとしているかもしれない。同じようにデカーンの回想録(執筆は1824年)も安易に信用していいわけではない。とはいえデカーンが功績を自分のものにするのではなく、モローを褒め称えている点は見逃してはならないだろう。
従って問題は「リシュパンスに対し、クリストフとマイテンベートを経て敵の背後に襲い掛かれという明白かつ公式の命令を含むモローの文章が、戦い前に存在するかどうか」(p244)にかかってくる、というのがPicardの指摘だ。それについては次回に。
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